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Wikipedia‐ノート:削除依頼/サラ・フォーブス・ボネッタ

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著作権侵害に当たると思われる部分の一覧表

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『ヴィクトリア時代を生きたアフリカの王女 サラの旅路』(ウォルター・ディーン・マイヤーズ著 宮坂宏美訳 小峰書店) からの引用・改変部分を原著と対比する形で表にしました。ご参照下さい。

自国の襲撃、両親の死
原文 記事
奴隷と引きかえにヨーロッパ人から手に入れていた銃や物資のおかげで、ダホメーは豊かになるばかりでなく、敵をおさえつける決定的な武力も得ていた。(p.17) しかし、ヨーロッパ人から手に入れた物資や銃のおかげで、国が豊かになるだけでなく、他国を圧倒する強い武力も手に入れていたゲゾ王は、
その日は、ダホメーでは「エクオニーヌーアト」という祭りの初日で、人間を生けにえにする儀式がおこなわれることになっていた。(p.16) この日は、ダホメーの「エクオニーヌーアト」という祭りの初日に当たり、人間をいけにえにする儀式が行なわれる事になっていた。
フォーブスは、なんとかしてゲゾ王にこの虐殺をやめさせようとした。だが王は手をひとふりしてその要求をはねのけた。フォーブスが金をだそうと申しでると、王はようやく役人たちに数人の生けにえと交換するのをゆるした。(p.20) 驚いたフォーブスは、王になんとかこの儀式を止めさせようとした。しかし、王は彼の要求をはね付けた。やむなく、フォーブスが金を出すと申し出ると、王はようやく、役人達に数名のいけにえと交換する事を許可した。
しかし王の通訳によれば、先祖の墓を清める儀式は古くからの伝統で、途中でやめてしまうとダホメー国民の名誉を傷つけるということだった。(p.20) だが、王はこの儀式は古くからの伝統であり、途中で中断するとダホメー国民の名誉を傷つける事になり、儀式は続けなければいけないと言った。



いけにえ
原文 記事
「その娘はエグバド人、ダホメー人の敵だ。顔にある部族の印は、娘が王家の血をひいていることをあらわしている、私の祖先の墓にこの娘の血をそそげば、先祖に敬意を払うことになるのだ」(p.21-22) この娘はダホメー人の敵であるエグバド人、しかも顔にある部族の印によると、彼女は王族であり、この娘をいけにえにする事は、私の先祖に敬意を払う事になると主張した。
アフリカをおとずれるイギリス人は、いつも強気で交渉してくる。自分たちの利益になると思えば平和的に条約を結ぶが、目的を達成するためにより有効だと判断すれば、軍事力を利用することもいとわない。(p.22) 彼らイギリス人達は、いつも強気で交渉し、自分達の利益になると思えば平和的な方法で条約を結ぶが、目的を達成するためにより有効であると判断すれば、武力を利用する事も厭わなかった。
ゲゾ王は、一八四七年四月にイギリスと友好・通商条約ををかわしていたが、奴隷貿易の廃止にはいまだに応じていなかった。ほんの数ヶ月前の一八四九年二月には、ボネッタ号をふくむイギリス軍が、ダホメーの西にあるガリナスの奴隷収容所を攻撃し、破壊したことも知っていた。
イギリスの外務大臣、パーマストン卿は、アフリカ駐在英国領事、ジョン・ビークロフトへの手紙のなかで、ゲゾ王にたいしては武力を用いてもかまわないとはっきり述べている。(p.22)
ゲゾ王は1847年4月にイギリスと友好・通商条約を交わしていたが、いまだに奴隷貿易の廃止には応じておらず、彼は「墓の清め」の儀式を行なっているこの日から、ほんの数ヶ月前の、1849年の2月にボネッタ号を含むイギリス軍が、ダホメー王国の西にあるガリナスの奴隷収容所を攻撃し、破壊した事も知っていた。当時、イギリスの外務大臣であったパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは、アフリカ駐在英国領事ジョン・ビークロフトへ宛てた手紙の中で、ゲゾ王に対しては武力を用いてもかまわないという意見を、明確に述べている。
そして、少女を英国国教会出身の宣教師の組織、英国公会宣教協会のバグダリー支部へ少女を連れていった。(p.25) そして英国国教会出身の宣教師達の組織、英国聖公会宣教教会のバグダリー支部へ少女を連れて行った。
洗礼を受けさせるべきだということになり、付属の教会で準備が進められた。洗礼名を決めるようにいわれたとき、フォーブスは、少女にサラ・フォーブス・ボネッタという名を与えた。(p.26) フォーブスは少女に洗礼を受けさせる事にした。それから、少女にサラ・フォーブス・ボネッタという名を付けた。
千八百五十年七月下旬、ボネッタ号は、ロンドン近郊にある活気にみちたグレーヴセンドの波止場に到着した。(p.30) 1850年7月下旬、ボネッタ号は、ロンドン近郊のグレーヴセンド港1に到着した。
  1. グレーヴセンド港(Gravesend Port)という施設は実在しません。グレーヴセント埠頭、波止場(Gravesend Pier)です。
改変の結果、誤解を生む表現になってしまっています。


イギリスでの新生活
原文 記事
女王は、思った以上にサラが英語を身につけていることに関心し、サラがけんめいに語る話に耳をかたむけた。(p.38) ヴィクトリア女王は、サラが思ったよりも英語を身に付けている事に感心し、彼女の話に聞き入った。
ヴィクトリア女王はサラの身の上話に深く心をうごかされた。フォーブス家には、子どもをもうひとり養うだけの財力がじゅうぶんにあったが、女王は、サラの養育費を自分で持つことに決めた。そして、個人秘書のチャールズ・ボーモント・フィリップスに、必要な手配をするようにいいつけた。(p.38) 女王は、サラの話に心を深く動かされ、フォーブス家には、あと一人の子供くらい養うだけの経済力はあったが、女王はサラの養育費は、自分が負担する事に決め、個人秘書で財務管理官のチャールズ・ボーモント・フィップスに、必要な手配を命じた。
一般市民が女王の居城をおとずれることはめったになかったが、女王はサラと会うのを心から楽しんでいたらしく、その後も何度か面会の機会がもうけられた。(p.38) 当時、一般市民がウィンザー城を訪れる事は、ほとんどなかったが、女王はサラと会うのをとても楽しんでいたらしく、その後も、何度か面会している。
十九世紀半ばのイギリスには、公共の学校制度はなかった。教育は私的になされるもので、しかも、それを受けることができるのはごくわずかな人間だった。きわめて富裕だったフォーブス家の子どもたちは、私立の学校へ通っていた。サラは学校へは行かなかったが、フォーブス家で教育を受けていたため、イギリスの一般家庭の子どもたちよりはるかに高い学力を身につけていた。(p.40) 19世紀半ばのイギリスでは、公共の教育制度はまだなく、教育は個人的になされるもので、しかも、それを受ける事ができるのは富裕層に限られていた。サラは学校へは行かなかったが、フォーブス家で教育されていたため、イギリスの一般家庭の子供達よりも、遥かに高い学力を身に付けた。
ロンドンに住むイギリス人は、黒人をみかけることはあっても、サラのような暮らしをしているアフリカの少女を目にすることはまずなかった。サラはいつもりっぱなドレスを着ていたし、どこかへいくときはかならず裕福なフォーブス家の人間か宮殿の人間といっしょだった。(p.46) ロンドンでは、どこにもサラのような暮らしをしている黒人はいなかった。サラはいつも綺麗なドレスを着て、どこかへ出かける時には必ず裕福なフォーブス家の人達と一緒だった。
『ダホメー王国とダホメー人』のなかで、フォーブスはサラについてこう書いている。

あの子は、同じ年ごろの白人の子どもたちよりもかなりしっかりしている。おぼえがよく、強い精神力と思いやりがあり……(P.86)

フォーブスは、この年に出版した著書の『ダホメー王国とダホメー人』という本の中で、サラについて「あの子は、同年齢の白人の子供達よりもかなりしっかりしている。覚えが良く、強い精神力と思いやりがあり・・・・・・」と書いている。
シエラレオネは西アフリカに位置する国で、十八世紀後半、かつてイギリス本土や植民地で奴隷にされていたアフリカ人が生活を立て直す場として建国された。その後、キリスト教を広めたいと考える宣教師たちによって、首都フリータウンをはじめ、さまざまな町に協会が建てられた。英国聖公会宣教師協会は、シエラレオネに布教所をひらいた宗教組織のひとつだ。フォーブスがアフリカでサラを救ったときに世話になったのも、女王がサラを送る予定の学校を運営しているのも、この協会だった。(p.50) シエラレオネは、18世紀後半に、かつてイギリスやイギリスの植民地で奴隷にされていたアフリカ人が生活を建て直す場所として建国された国だった。その後、キリスト教を布教したいと考えた宣教師達により、様々な町に教会が建設された。英国聖公会宣教教会は、シエラレオネに布教所を開いた宗教組織の1つだった。女王がサラを送る予定の学校も、この教会によって運営されていた。
夫に負けないほどサラを好きになっていたフォーブス夫人は、胸がはりさけそうな思いだった。(p.50) 夫に負けないほどサラを愛していたフォーブス夫人は、サラと別れる事に、胸が張り裂けそうな思いをした。
フォーブス夫人は、みんな決してあなたのことは忘れない、たまにはイギリスへ替えれるし、そのときは好きなだけ止まっていいのよ、サラに告げた。(P.51) 夫人は、みんなサラの事は絶対に忘れない、たまにはイギリスにも帰れるし、その時はサラの好きなだけ自分達の家に泊まっていいのだと言った。
サラは、荷物が船に積みこまれているあいだ、たくさんの人と抱きあい、たくさんの涙を流した。(P.55) サラは、港に来た多くの人々と抱き合い、泣きながら別れを惜しんだ。
協会の有力者で、精力的に活動するヴェン師は、会員たちと衝突することが多かった。ヴェン師は、アフリカに各地にある布教所を、地元のアフリカ人の手で運営させたいと考えていた。また、女子にも男子とおなじ教育を受けさせようと心に決めていた。かしこい女性を育てることは、しっかりした家庭をつくることにつながると考えていたからだ。ヴェン師は、結果的にサラの人生に大きな影響を与えることになる。(P.56-57) 英国聖公会宣教教会の代表者で、教会の有力者であり、精力的な活動を続けるヘンリー・ヴェン氏は、会員達との衝突が多かった。ヴェン氏は、アフリカ各地にある布教所を、地元のアフリカ人達の手で、運営させたいと考えていた。また、女の子にも男の子と同じ教育を受けさせようと決心していた。彼が、賢い女性を育成する事は、しっかりした家庭を作る事になると考えていたからであった。ヴェン氏は、結果的にサラの人生に大きな影響を与える人物となった。
サラが通う女学校の生徒たちは、ほとんどがフリータウンとその周辺の村からやってきていた。(p.57) サラが通う事になったこのフリータウンの女学校の生徒達は、ほとんどがフリータウンとその周辺の村からやって来た少女達だった。
発展しつつあるアフリカ世界で自分の娘をしかるべき地位につけたいと考える親たちは、教育がその機会を与えてくれることを知っていた。(p.57-58) 彼女達の親は、発展しつつあるアフリカ世界で、自分の娘を然るべき地位に就けたいと考え、教育がその機会を与えてくれる事を知っていた。
なかには、協会への寄付金にささえられて無料で学校に通っている子どもたちもいたが、その数は少なかった。(p.58) 中には、教会への寄付金に支えられて、無料で学校に通っている子供達もいたが、そういう子供は少数であった。
しかし、イギリス人とアフリカ人とのあいだには、決定的な文化のちがいがあった。宣教師たちは、ときにアフリカ人をみくだし、彼らの宗教を「原始的」とみなし、書類のなかで黒人を「野蛮人」としるした。(P.58) しかし、イギリス人とアフリカ人の間には、大きくて決定的な文化の違いがあった。宣教師達は、時にアフリカ人を見下し、彼らの宗教を「原始的」と捉え、書類の中で黒人を「野蛮人」と記した。
宣教師たちは、アフリカの女性にも、ヨーロッパの服か、せめてアフリカの服でもイギリス人の好みに会うものを着てほしいと思っていた。女学校の生徒たちはイギリス風のドレスとボンネットをあてがわれ、英語の賛美歌を教えられた。アフリカの子どもたちにとって、キリスト教系の学校に通うということは、自分たち独自の文化をすててしまうということだった。(P.58) 宣教師達は、アフリカの女性にも、ヨーロッパ人の服か、せめてアフリカ人の服でも、イギリス人の好みに合う服を着て欲しいと思っていた。女学校の生徒達は、イギリス風の服を着せられ、ボンネットをかぶらされ、英語の賛美歌を歌わされた。アフリカの子供達にとって、キリスト教系の学校に通うという事は、自分達独自の文化を捨ててしまうという事であった。



サラの教育
原文 記事
女学校の校長であるサス女史は、個人的にもサラを歓迎した。(p.58) 女学校校長のサス女史は、個人的にもサラを歓迎した。
女生徒のほとんどが同じ部屋で寝泊まりしていたにもかかわらず、サラには個室がわりあてられた。部屋の壁には、サラが持参した女王の写真もかざられた。(p.59) 女生徒のほとんどが同じ部屋で寝泊りしていたにも関わらず、サラには個室が与えられた。部屋の壁には、サラが持参したヴィクトリア女王の写真が飾られた。
宣教師協会の記録によれば、サラは学校でとてもかわいがられていた。(p.60) 当時の宣教教会の記録によると、サラは学校でとても可愛がられ、大切にされていたという。
サス校長は、非公式ながらサラの保護者となり、サラをピクニックや近所の市場へ連れて行った。(p.60-61) サス校長は、非公式ながらサラの保護者になり、サラをピクニックや近所の市場につれて行くことがあった。
先生方は、サラを特別あつかいし、イギリスから持参した服や、女王から贈られた生地でつくったドレスを身につけることをゆるした。だが、ほかの子どもたちは、学校の生徒や職員が縫った質素な服を着ていた。(p.61) 教師達はサラを特別扱いし、イギリスから持参した服や、女王から贈られた生地で作ったドレスを着る事を許した。しかし、他の子供達は、女学校の生徒や教師が縫った質素な服を着ていた。
サラは、学校の成績もよかった。英語をつかいながら一年間イギリスでくらし、フォーブス家で個人授業を受けていたからだ。(p.61) サラは、英語を使いながら一年間イギリスで生活し、フォーブス家で個人授業を受けていたため、学校の成績は良かった。
すでに字を書くことも、教科書に使っていた『マレーの英文法』を読むこともできた。ピアノも習っておたが、サラにとっては簡単なようだった。(p.61) この頃、既に字を書く事も、教科書に使っていた『マレーの英文法』を読む事もできた。ピアノも、彼女にとっては簡単だったようだ。
サス校長はヴェン師に、ヴェン師はフィリップス財務官に、サラがいそがしい時間割をきちんとこなしていることを報告した。(p.61-62) サス校長はヴェン氏ヘ、ヴェン氏はフィップス財務官ヘ、サラが忙しい時間割をきっちりとこなしている事を報告した。
サラは、一週間に一度、イギリスから郵便を運んでくる蒸気船を心まちにしていた。フォーブス夫人からは手紙が、ヴィクトリア女王からは手紙と贈り物がいつもとどいた。(p.62) サラは、1週間に1度、イギリスから郵便を運んでくる蒸気船の到着を心待ちにしていた。いつもフォーブス夫人からは手紙が、ヴィクトリア女王からは手紙と贈り物が届けられた。
サス校長と、教師のウィルキンソン女史は、どちらも女学校で勉強を教えるためにイギリスからやってきていたが、ときどき、女生徒たちのなかでだれが教師に適しているか、適していないか話し合うことがあった。このふたりの白人女性は、地元の少女が教師になって、アフリカの生活習慣や聖書の読み方を教えてくれることを強く望んでいた。(p.62) サス校長と、教師のウィルキンソン女史は、時々、女生徒達の中で誰が教師に適しているかを話し合う事があった。この二人のイギリス人女性は、地元の少女が教師になって、アフリカ人に生活習慣や聖書の読み方を教えてくれる事を強く望んでいた。
しかし、アフリカ人からみると、女学校の一番の目的は、アフリカの少女をクリスチャンのイギリスの少女にかえることのように思われた。生徒たちは、ひとりひとり花壇の世話をするようにすすめられていた。イギリス風の服を縫ったり、つくろったりすることも教えられていた。こういった技術は、西アフリカではほとんど必要ないものだった。そもそも、アフリカの少女がイギリスの少女になれるはずがない。シオラレオネはイギリスではないのだ。白人の宣教師たちは、黒人の少女たちをなかなか対等にあつかおうとはしなかった。(p.62,64) しかし、アフリカ人から見れば、この女学校の一番の目的は、まるでアフリカの少女をクリスチャンのイギリスの少女に変える事のように思われた。女学校の生徒達は、一人一人花壇を世話をするよう勧められたり、イギリス風の服を縫ったり、繕ったりする事を教えられていた。これらの技術は、西アフリカではほとんど必要のないものであった。そもそも、アフリカの少女がイギリスの少女になれるはずもなかった。シエラレオネはイギリスではなかった。白人の宣教師達は、黒人の少女達をなかなか同等に扱おうとはしなかったのである。
ほかの女生徒たちが読み書きの基礎を学ぶ一方で、サラはフランス語を習いはじめていた。イギリスの上流階級の教育を受けるようになっていたのだ。(p.64) サラは、他の生徒達が読み書きの基礎を学ぶ一方で、フランス語を習い始めていた。彼女は、イギリスの上流階級の教育を受けるようになっていたのだ。
サラは、定期的に女王に手紙を書いた。協会の記録では、女王はサラの進歩にご満悦だった。女王からの贈り物とはべつに、フィリップス財務官からは、サラにかかる費用が直接学校へ送られていた。(p.65) サラは、定期的に女王に手紙を書いた。協会の記録では、ヴィクトリア女王はサラの進歩に大満足だったという。女王からの贈り物とは別に、フィップス財務官からは、サラにかかる費用が直接送金されていた。
サラは、みずからの資産をもっていなかったにもかかわらず、上流階級の人間としてあつかわれていた。(p.66) サラは、自らの資産を持っていなかったにも関わらず、上流階級の人間として扱われていた。
デイヴィスは、宣教師であり、アフリカの西海岸で貿易を推進する実業家でもあった。女学校でサラを紹介されたデイヴィスは、学校の有名人い会うことができてよろこんだ。(p.69) 彼は、宣教師であり、アフリカの西海岸で貿易を推進する実業家でもあった。学校でサラを紹介されたデイヴィスは、学校の有名人に会う事ができて喜んだ。
協会のどの資料も、サラが優秀な生徒でありつづけたことを示している。サラは、サス校長から受けるフランス語の授業だけではなく、ピアノや歌の練習にもいそしんでいた。しかし、このアフリカの学校で、サラが本当に幸せだったかどうかまでは知ることができない。(p.70) 協会のどの資料も、サラがいかに優秀な生徒であり続けたかを示している。サラは、フランス語の授業だけでなく、ピアノや歌の練習にも励んでいた。しかし、このフリータウンの学校で、サラが本当に幸せであったのかまではわからない。



イギリスへの帰国
原文 記事
フォーブス夫人は、今や四人のおさない子どもをかかえる未亡人となり、ウィンザーから、実家に近いスコットランドへ引っ越していた。夫人には、サラの面倒をみることができそうにもなかった。そこで女王は、ジリンガムのパーム・コテージに住むシェーン一家とサラが一緒にくらせるように手配した。(p.76) フォーブス夫人は、四人の幼い子を抱えた未亡人となり、今はウィンザーから実家に近いスコットランドへ引越していた。そこで女王は、ジリンガムのパーム・コテージに住むシェーン家にサラをあずかってもらえるように手配した。
受け入れの手配はシェーン夫人がおこない、サラの養育費は女王が用意することになった。(p.77) サラを受け入れる手配は、シェーン夫人が行ない、サラの養育費はこれまでと同じく女王が用意する事にした。
エリザベス・シェーンの夫、ジェームズ・フレデリック・シェーン師は、一八〇三年に生まれた。二十九歳のときにアフリカにわたり、一八三二年から四十六年まで宣教師として働いた。(p.77) シェーン夫人の夫、ジェームズ・フレデリック・シェーン師は、1803年に生まれ、29歳の時にアフリカに渡り、1832年から1847年まで宣教師として働いた。
一八四七年には熱病にかかり、だいじをとってアフリカをはなれざるをえなくなった。一八五五年、イギリスはロシアと交戦状態にあった。このクリミア戦争でたくさんの死傷者が出ると、シェーン師は、自宅に近いメルヴィル病院付きの牧師になった。(p.77-78) 1847年に彼は熱病にかかり、大事をとってアフリカを離れざるをえなくなった。1855年、1853年に起こったクリミア戦争で多くの死傷者が出ると、シェーン師は、自宅に近いメルヴィル病院付きの牧師になった。
一八五五年、サラがシェーン家に到着したとき、家には七人の子どもがいた。そのなかには、フレデリック・シェーンという、サラと年の近い少年もいた。(p.78) 1855年、サラがシェーン家に到着した時、家には7人の子供がおり、その中には、フレデリック・シェーンという、サラと年齢が近い少年もいた。
一方サラは、すぐ新しい家へ、エリザベス・シェーンのもとへ向かった。シェーン夫人のことも、フィリップス夫人のことも、しだいに「ママ」と呼ぶようになるが、精神的な結びつきがより強くなっていくのは、シェーン夫人のほうだった。(p.84) サラは、シェーン家で、彼女を迎える準備が済むと、すぐにシェーン家へと向かった。サラは、しだいにシェーン夫人の事は「シェーン・ママ」、フィップス夫人の事は「フィップス・ママ」と呼んで慕うようになるが、より精神的な結び付きを強めていくのは、シェーン夫人の方になる。
一八五六年ごろには、シェーン家の日常生活にもすっかりなじんでいた。パーム・コテージでの生活の中心は宗教だった。シェーン意が協会の活動に深くかかわっていたため、家族の交際する人のほとんどは英国国教会の関係者だった。(p.84) サラは、翌年の1856年頃には、すっかりシェーン一家との暮らしに馴染んでいた。パーム・コテージでの生活の中心を占めるのは、宗教だった。シェーン師が協会の活動に深く関わっていたため、一家が交際する人のほとんどは英国国教会の関係者であった。
シェーン師はまた、言語の研究を専門とする学者でもあった。アフリカのさまざまな言語を学び、それに関する記事や書物を執筆していた。シェーン家には、学問所のような雰囲気があったが、同時に活気にもみちあふれていた。子どもたちの教育は家庭でおこなわれ、サラも年上の子どもたちといっしょに勉強をつづけた。(p.84) シェーン師はまた、言語学を専門とする研究者であった。彼はアフリカの多様な言語を学び、それに関する記事や書物を執筆していた。シェーン家には、学問所のような雰囲気が漂っていたが、同時に活気にも満ち溢れていた。子供達の教育は家庭で行なわれ、サラも一家の子供達と一緒に勉強を続けた。
サラは生涯をつうじてシェーン家に家族全員にかわらぬ愛情を示している。サラにとってシェーン一家は、ほんとうの家族も同様だった。(p.84) サラは一生を通じて、シェーン家の家族全員に変わらぬ愛情を抱き続けた。サラにとって彼らは、本当の家族も同然だった。
女王は、サラがやってくると、ひんぱんに「学業」の成果を試し、勉強の進み具合をたしかめた。(p.86) ヴィクトリア女王は、サラがやって来ると、頻繁に「学業」の成果を試し、勉強の進み具合を確かめていた。
ヴィクトリア女王は、しばしば国籍や人種の異なる人々を宮殿に招き、自分たちと同等にあつかいたいという意向を示していたが、これは当時としては先進的な考え方だった。(p.86,88) 女王は、しばしば国籍や人種の異なる人々を宮殿に招き、自分達と同等に扱いたいという意向を示しているが、これは当時としては先進的な考えと言える。
フィリップス夫人は、サラのものおぼえがはやいこと、それにたいして女王が満足していることについて、たびたびふれている。(p.88) フィップス夫人は、サラの物覚えが早い事、それに対して女王が満足している事について、度々、シェーン夫人への手紙の中で触れている。
サラは、シエラレオネで裁縫の授業を受けていた。そこで、そのときの経験を生かし、アルバート公のために室内ばきを縫った。女王はこのことにいたく感銘を受け、自分の分もつくってほしいとサラにたのんだ!(p.89) サラは、ある時、シエラレオネでの裁縫の経験を生かし、アルバート公のために室内ばきを縫った。女王はこの事にいたく感銘を受け、自分の分も縫って欲しいとサラに頼んだ。
女王とおなじように、サラもイギリスでの生活に満足していたようだ。サラからシェーン・ママへの手紙には、アフリカ人としての自分をどう考えていたのかについては、まったくのべられていない。(p.89) ヴィクトリア女王と同じように、サラもイギリスでの生活に満足していたようだ。サラからシェーン夫人への手紙には、アフリカ人としての自分をどう考えていたのかについては、全く述べられていない。



王女たちの結婚
原文 記事
サラと王室の子どもたちとの関係は、きわめて良好だったようだ。サラは、第一王子を「バーティ」と読んでいたし、手紙では、アリス王女との文通についてもふれている。(p.94) サラとイギリス王室の子供達との関係は、極めて良好だったようである。サラは、エドワード王子の事は王室の人々と同様に「バーティ」と呼んでいるし、アリス王女との文通についても触れている。
ヴィッキーは、わずか十四歳のときに婚約し、十七歳の誕生日を迎えてすぐに結婚している。ヴィクトリア時代の令嬢たちは、十七歳か十八歳になると社交界に「デビュー」し、積極的に未来の夫をさがしはじめた。財産あるいは肩書きのいずれかをもつ上流階級の貴婦人たちには、ほかに選択の余地がほとんどなかった。条件のいい仕事は男性にしめられ、事務員として働くことさえ不適当とみなされた。淑女にゆるされるのは、宣教師などの宗教的な仕事か、なにかを教える仕事くらいだった。(p.98) ヴィッキーは、わずか14歳の時に婚約し、17歳の誕生日を迎えてすぐに結婚している。ヴィクトリア朝時代の令嬢達は、 17歳か18歳になると社交界にデビューし、そこで積極的に未来の夫を探し始めた。財産あるいは肩書きのいずれかを持っている上流階級の夫人達には、他に選択の余地がなかったのである。条件のいい仕事は全て男性によって占められ、事務員として働く事さえ不適当であると見なされた。淑女達に許されるのは、宣教師などの宗教的仕事か、何かを教える仕事くらいだった。
サラはいったい、なにがしたかったのだろう。サラには、自立できるだけの収入も、イギリスでの肩書きもなかった。一八五八年、ヴィッキーの結婚式がおこなわれたこの年、サラとアリス王女は十五歳になっていた。ヨーロッパ中の何人もの若き王子たちが、すでにアリス王女の夫候補として考えられていた。(p.99) サラは一体、何がしたかったのであろうか。天涯孤独で女王の保護を受けていたサラには、自立できるだけの収入も、イギリスでの肩書きもなかった。ヴィッキーが結婚したこの年、サラとアリス王女は15歳になっていた。ヨーロッパ中の何人もの若き王子達が、既にアリス王女の夫候補として検討されていた。
条件のいい結婚は、イギリス人女性の生活のなかでもっとも重要なできごととしてとらえられ、娘たちは、十代も半ばになると、結婚を意識しているものとみなされた。当時の若い女性たちは、新聞にくまなく目を通し、友人や親戚の結婚の知らせをみつけるのを楽しみにしていた。(p.99) 条件のいい結婚は、イギリス人女性の中で最も重要なできごととして捉えられており、十代も半ばになると、娘達は結婚を意識しているものと見なされた。この時代の若い女性達は、新聞に隈なく目を通し、友人や親戚の結婚の知らせを見つけるのを楽しみにしていた。
シェーン家の長女ハリエットは、一八五八年に宣教師と結婚している。サラは、その結婚式で花嫁介添人をつとめた。(p.100) シェーン家の長女、ハリエットも、この年に宣教師と結婚している。サラは、彼女の結婚式で花嫁介添人を務めた。
一八六〇年、サラはあいかわらずシェーン家でくらしていた。毎日のように友人をたずねあるき、ロンドン、ウィンザー、とっきにはメアリー・フォーブスの住むスコットランドのモニアック城まででかけていった。女王のもとへもたびたびおとずれ、サラとアリス王女の友情はますます深まった。(p.100-101) 1860年、サラは依然としてシェーン家で暮らしていた。毎日のように友人を訪ね歩き、ロンドン、ウィンザー、時にはフォーブス夫人の住むスコットランドのモニアック城まで足を伸ばした。サラは女王の許へも度々訪れ、サラとアリス王女の友情は、ますます深まった。



デイヴィスのプロポーズ
原文 記事
ジェームズ・ピンソン・ラブロ・デイヴィスは三十一歳。西アフリカで生まれ、おさないころに英国聖公会宣教協会が運営する学校で学んだ。船長になるべく訓練を受けていたが、デイヴィスが興味を持ったものは、海運業の実務的な側面よりも、むしろ宣教師の仕事だった。西アフリカの協会本部に属するヘンリー・ヴェン師は、デイヴィスを高く評価していた。アフリカの発展は、自国の経済を向上させようとするアフリカ人にかかっている、という信念にもとづき、デイヴィスに事業をはじめるよう、また、人々の手助けをするよううながしていた。デイヴィスは、事業の拡大に力を入れたが、同時に、布教活動にもかかわっていた。(p.107) ジェームズ・ピンソン・ラブロ・デイヴィスはこの時31歳だった。彼は西アフリカで生まれ、サラと同じく、少年の時に英国聖公会宣教協会が運営する学校で学んでいた。彼は初めは船長になるべく訓練を受けていたが、彼が興味を持ったのは、海運業の実務的な側面よりも、むしろ宣教師の仕事だった。西アフリカの協会本部に属するヴェン氏は、デイヴィスを高く評価していた。彼は、アフリカの発展は、自国の経済を向上させようとするアフリカ人の手にかかっている、という信念に基づいて、デイヴィスにぜひ事業を始めるよう、また、人々の手助けをするよう促していた。デイヴィスは、事業の拡大に力を入れていたが、同時に、布教活動に関わっていた。
ふたりがはじめて会ったとき、サラはほんの子ども、デイヴィスは二十代で、すでに結婚していた。

デイヴィスの妻、マチルダは、闘病生活の末、一八六〇年二月に亡くなった。デイヴィスは、その数ヶ月後にサラに手紙を書いた。ふたたび自己紹介をし、妻の死について説明したあと、自分との結婚を考えてくれないだろうかとたずねた。(p.108)

サラと初めて会った時、デイヴィスは既に結婚していたが、彼の妻マチルダは、闘病生活の末、1860年の2月に病死していた。デイヴィスは、その数ヵ月後にサラに手紙で再び自己紹介をし、妻の死について説明をした後、自分との結婚を考えてくれないだろうかと尋ねた。
サラは、このひかえめなプロポーズを軽く受け止めていた。デイヴィスのことなどよく知らなかったし、とくに知りたいとも思わなかった。しかし、女王とフィリップス夫人は、サラを「おちつかせる」ためのひとつの方法として、結婚もいいのではないかと考えた。サラに結婚を申し込んだのはどんな男性なのか。将来性はあるのか。サラにふさわしい相手なのか。ヴィクトリア女王は、フィリップス財務官に調査を命じた。(p.109) サラは、最初はデイヴィスの控えめなプロポーズを、軽く受け止めていた。彼の事などよく知らなかったし、知りたいとも思わなかった。しかし、女王とフィップス夫人は、サラを落ち着かせる方法として、結婚もいいのではないかと考えた。ヴィクトリア女王は、デイヴィスの人柄、将来性、本当にサラにふさわしい相手なのかどうか、などをフィップス財務官に調査させた。
すぐに返ってきた答えは、「いいえ、デイヴィスさんとは結婚したくありません」だった。女王は、小さいころからサらのことをよく知っていた。頭がよく、勉強することと人をよろこばせることが大好きなのもわかっていた。上品で魅力的な女性に成長してきているとも思っていた。若い娘たちが恋愛結婚をしたがる気持ちも理解できた。自分もアルバート公を好きになって結婚したからだ。しかし女王は、少なくともその当時、女性であることはかならずしも楽ではないということも承知していた。(p.110) すぐに返ってきたサラの返事は「いいえ、デイヴィスさんとは結婚したくありません」だった。女王は幼い頃からサラの事をよく知っていた。サラは頭が良く、勉強する事と人を喜ばせる事が大好きなのもわかっていた。彼女は上品で魅力的な女性に成長してきているとも思っていた。また、自分もアルバート公と恋愛して結婚しているため、若い娘達が恋愛結婚をしたがる気持ちも理解できた。しかし女王は少なくとも当時、女性である事は必ずしも楽ではないという事も承知していた。



結婚の決心
原文 記事
女王は考えた。シェーン家で満足しているかぎり、サラは、私が望むような現実的な考え方で物事を決めようとはしないだろう。

こうしてサラは引っ越しさせられることになった。 一通の手紙が、宮殿からシェーン夫人のもとへ送られた。サラは、フィリップス夫人の親戚であるミス・ウェルシュの家へ、今いる場所から五〇マイルほどはなれたプライトンへいくことになった。(p.112)

ヴィクトリア女王は考えた。サラは、シェーン家で満足している限り、自分が望むような現実的な考え方で物事を決めようとはしないだろうと思った。こうして、サラはシェーン家から、五十マイル離れた場所にある、フィップス夫人の親戚であるミス・ウェルシュの家があるブライトンヘと行く事になった。
サラがブライトンへ引っ越しして絶望的な気分になったんは、なにも、シェーン一家とはなればなれになってしまったから、あるいは、結婚を考えることを強いられたからだけではない。おさないときから、サラには、自分のほんとうの居場所だと感じられるところがほとんどなかった。(p.114) しかし、サラが絶望的な気持ちになったのは、何も、シェーン一家と離ればれになってしまってから、あるいは好きでもなく、よく知りもしない相手との結婚を考えるのを強いられたからだけではなかった。幼い頃から、サラには自分の本当の居場所だと感じられる所がほとんどなかった。
サラは、自分がいとも簡単に命令によって動かされてしまうことに、そして、イギリスのどこにお自分の居場所はないと思いしらされたことに、深く傷ついていた。(p.120) 彼女は、自分がいとも簡単に命令によって動かされてしまう事に、そしてイギリスのどこにも自分の居場所はないと思い知らされた事に、深く傷ついた。
その年の春、千八百六十一年三月十六日、ケント公妃であるヴィクトリア女王の母親が亡くなった。サラは、自分の悲しみで胸がいっぱいだったにもかかわらず、女王に悔やみの手紙をしたためた。(p.122) サラがブライトンで悲しみと苦悩の日々を過ごしていた頃、ヴィクトリア女王の母のケント公妃が1861年の3月16日、亡くなった。サラは、自分も悲しみにくれている最中だったにも関わらず、女王へとお悔やみの手紙を書いた。
月日はのろのろと過ぎていった。サラは、、養父母とはなればなれになり、つらい日々を送っていた。それまでの人生のなかで、サラが自分の家と呼べる永住の場所を見つけたことは一度もなかった。(p.124) 月日はただゆっくりと過ぎていった。サラは、自分の家と呼べる永住の場所を見つけた事は一度もなかった。
サラは、デイヴィスとの生活が自分にとってどんな意味をもつのか、以前よりも考えるようになった。また、女王の援助を受けずにイギリスでくらしたらどうなるのかも考えた。アフリカ人の女性として、自分ひとりでなにができるだろう。

女王はデイビスさんのことをみとめている。彼には私を養うだけの財産があるし、大切にすると約束してくれてもいる。ヘンリー・ヴェン師も彼の人格を保証している。(p.124-125)

孤独の中、サラはデイヴィスとの生活が自分にとってどういう意味を持つものなのか、以前よりも考えるようになった。また、女王の援助を受けずに暮らしたら、天涯孤独のアフリカ人の女性として、自分一人で何ができるのだろうと考えてみた。彼には自分を養うだけの財産もあるし、大切にしてくれると約束してくれていて、女王もヴェン氏も、彼の事を認め、彼の人柄を保証してくれている。
サラは、ヴィッキーが十四歳でフリードリヒ王子との結婚に同意したことを知っていた。アリス王女も、ルードヴィヒ王子とすでに婚約していた。女王の娘たちはみな、結婚してるか、結婚する予定があるかのどちらかだった。サラには、女王がはやく娘たちみんなにおちついてほしいと思っているのがわかった。(p.126) またサラは、結婚したヴィッキーや、一年前にルートヴィヒ王子と婚約したアリス王女の事を考えた。女王の娘達は全員、結婚しているか、結婚する予定があるかのどちらかであった。サラには、ヴィクトリア女王が早く娘達みんなに落ち着いて欲しいと思っているのが理解できた。
一八六一年十二月、アルバート公が亡くなった。九ヶ月のあいだに、ヴィクトリア女王は、最愛の母親と最愛の夫のふたりを失った。イギリス中が悲しみに包まれているようだった。このことは、サラ自身の考え方にも影響をおよぼした。

数ヶ月たった一八六二年三月のある晴れた春の日、サラはウィンザー城をふたたびおとずれている。(中略)ついに、しぶしぶながら、サラはデイヴィスとの結婚を受け入れた。(p.126,128)

1861年の12月、女王の母のケント公妃に続いて、今度は女王の最愛の夫であったアルバート公が亡くなる。女王は、九ヶ月の間に、立て続けに肉親を失った。この事はサラの考え方にも大きな影響を及ぼした。1862年の3月のある晴れた春の日に、サラは渋々ながら、女王にデイヴィスとの結婚を承諾した事を伝えた。
アリス王女の結婚式は、一八六二年のはやい時期におこなわれることになっていたが、アルバート公の死去にともない、六ヶ月延期された。ようやく結婚式がおこなわれたのは、一八六二年七月一日だった。サラの結婚式は、翌月、一八六二年八月と決められた。(p.128) アリス王女の結婚式は、1862年の早い時期に行なわれる事になっていたが、父のアルバート公の死去に伴い6ヶ月延期された。ようやくアリス王女の結婚式が行われたのは、1862年7月1日に行なわれた。サラの結婚式は、アリス王女の結婚式の翌月の8月と決められた。



アフリカでの夫との生活
原文 記事
デイヴィスがアフリカで仕事をしていたため、ふたりはすぐにフリータウンへと向かった。デイヴィスは自分の事業を続け、サラは女学校で教えることになっていた。(p.132) サラはデイヴィスがアフリカで仕事をしていたため、彼と共にフリータウンに旅立った。デイヴィスは自分の事業を続け、サラはフリータウンの女学校で教師をする事になっていた。
英国聖公会宣教協会では、依然として、だれが学校と協会支部を指導するべきかという議論がおこなわれていた。フリータウンの女学校で教えるイギリス人女性らは、アフリカ人の生徒たちよりも、自分たちのほうが文化的にまさっていると考えがちだった。宣教師たちがもちこんだイギリスの階級制度があったため、イギリス人教師らは、アフリカ人の指示を受けて働きたくはないと思っていた。協会の人々とアフリカ人とのあいだには、たびたび仲たがいが生じた。ヴェン師のように、この壁を乗りこえるのはアフリカ人の教師や聖職者であるべきだと信じる人は少なかった。(p.132) 当時の英国聖公宣教協会では、依然として、誰が学校と協会支部を指導するのが良いのかという議論が行なわれていた。フリータウンの女学校で教師をしているイギリス人女性達は、アフリカ人の生徒達よりも自分達の方が文化的に勝っていると考えがちだった。当時のフリータウンには、宣教師達が持ち込んだイギリスの階級制度があったため、イギリス人教師達は、アフリカ人の指示で働きたくはないと思っていた。このような事情のため、イギリス人の教会の人々とアフリカ人との間には、度々争いが起こった。ヴェン氏のように、この壁を乗り越えるのはアフリカ人の教師や聖職者であるべきだと考える人は少なかった。
ようやく教師として採用された若いアフリカ人女性たちは、英語で教育を受けた者ばかりで、英語で教えることだけでなく、イギリスの価値観を伝えることも期待されていた。これまでに人生のほとんどがそうだったように、十九歳のサラは同僚たちとはかなり立場がちがっていた。サラは、一流の教育を受け、少女時代の大部分をイギリスで過ごした、いっしょに働くイギリス人教師たちとおなじくらい、イギリスの文化にくわしかった。上流階級の生活については、イギリス人教師よりもはるかに多くのことを知っていたし、また、さまざまな経験もしていた。(p.134) ようやく教師として採用された若いアフリカ人女性達は、英語での教育を受けたばかりで、生徒に英語を教えるだけでなく、イギリスの価値観を伝える事も期待された。それに比べ、サラは、同僚達とはかなり違う立場にあった。サラは、一流の教育を受け、少女時代の大半をイギリスで過した。一緒に働くイギリス人達と同じくらい、イギリスの文化について詳しく知っていた。上流階級の生活については、イギリス人の教師よりも圧倒的に多くの事を知っていたし、また、多くの経験もしていた。
成功した実業家の妻として、また、女王の知人として、サラはかなり特権的な立場にあった。教師のなかには、サラのことをきらっている者もいた。サラは、アフリカの少女たちがなにを知らなければならないかについて、自分の考えをもちこんだ。自分自身の基準と、アフリカ人女性も少なくともイギリス人女性とおなじ程度には有能になれるはずだという確信にもとづいてのことだった。(p.134) 成功を納めた実業家の妻として、また、大英帝国に君臨する女王の知人として、サラはかなり特権的な立場にあった。教師の中には、サラの事を嫌う者もいた。サラは、アフリカの少女達が何を知らなければならないかについて、自分の意見を持ち込んだ。自分自身の基準と、アフリカ人女性でも少なくとも、イギリス人女性と同じくらいには有能になれるはずだという彼女の確信に基づいての事だった。



子供の誕生、マデイラでの最後の日々
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サラは、シエラレオネの女学校で、その語ナイジェリアの同じような学校で、勉強を教えることになった。手紙には、自分にたいして変わらぬ尊敬の念を示してくれるデイヴィスのことがしだいに好きになってきたと書かれている。(p.136) サラは、最初はシエラレオネの女学校で、その後ナイジェリアの同じような学校で、勉強を教える事になった。この頃のサラの手紙には、自分に変わらぬ尊敬の念を示してくれるデイヴィスの事がしだいに好きになってきたと書かれており、
ジェームズもサラも、子どもができたことに大喜びだった。(中略)サラは、王家にちなんだ名前を子どもにつけたいと思い、女の子が生まれると、その子にヴィクトリアと名づける許可を女王に求めた。

「よろしい」という言葉が宮殿からとどいた。ヴィクトリア女王は、サラの子どもに自分の名を与えることをうれしく思い、名付け親の役までつとめたようだ。(p.137)

サラもジェームズも、子供ができた事に大喜びだった。サラはイギリス王室にちなんだ名前を子供に付けたいと思い、女の子が生まれると、その子にヴィクトリアと名付ける許可を求めた。ヴィクトリア女王は、喜んで許可した。
しかし、サラがアフリカでくらすようになり、以前よりも遠くなったにもかかわらず、女王とサラとの関係はしっかりとつづいていた。(p.138) サラがアフリカで暮らすようになり、以前より2人の距離は遠くなったにも関わらず、女王とサラとの関係はしっかりと続いていた。
その後数年のあいだに、アーサーとステラという名のふたりの子どもにもめぐまれた。アーサーは、長女ヴィクトリアと同じように、イギリスとヨーロッパで教育を受けた。(p.142) さらにこの数年後にも、アーサーとステラという名前の2人の子供にも恵まれた、アーサーは、長女のヴィクトリアと同じように、イギリスとヨーロッパで教育を受ける事になった。

--ゲルマニウム 2007年4月15日 (日) 11:11 (UTC)[返信]