コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

Wikipedia‐ノート:ルールすべてを無視しなさい/ログ200611291203

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

立場と、名前と、認識と、

[編集]

 私は逆ですね。内容を先に論じようとするのは懐疑的なんですよ。内容とは、ある立場からの見方・解釈により規定をしていく行為。それは一時的にせよ他の立ち位置には目を瞑ることです。名称には多義があり、様々な視座から多元的な認識がなされ、多様な解釈がなされる。それは内容の規定による予想された発展ではなく、形式的な広がりを見せる予期せぬ発展性です。内容を語るのは立ち位置を定めること。形式を後で決めるのは、多くの立ち位置を隠すことに繋がります。
 たとえ、元の提言者はなんらかの特定の意思を持っていたにせよ、偶然の中から多様な解釈が生まれ、枝葉のように育った経緯はアクシデントによる学び。それを最初から内容を規定してしまうのは、ある種の排外行為であり、共通感覚が先走ってると言えます。キリカ 2006年11月29日 (水) 14:58 (UTC)

「最初から内容を規定してしまうのは、ある種の排外行為であり、共通感覚が先走ってると言えます」とおっしゃっていますが、これはつまり英語版での運用やこの文書の意味内容についての検討には否定的ということでしょうか?「形式を後で決めるのは、多くの立ち位置を隠すことに繋がります」というのは、むしろ形式を先に決めてしまうと、内容に一定の枠をはめることになり、立ち位置が固定されてしまうと思われるのですが。キリカさん自身は内容自体についてはどのように考えておられるのでしょうか?以前の回答によると、初心者保護が目的だという内容が妥当であると述べていらっしゃったように思われましたが。--Kanbun 2006年11月29日 (水) 15:03 (UTC)
 私の解釈、もう少し広げますと一つの解釈のあり方としては「厳格さの要求への忌避」です。ただそれとは別に、そういった多元性を許す文言に注目します。おっしゃる通り枠を先に与えるとも言えます、ですがそれは意味・内容・立場を限定しうることではありません。これは文言や名称の規定を優先させようとするものです。むしろ枠を優先させ中身を未規定にする事で、多くの解釈を許し、枠の中に多様な内容を含み、枠の外には多様な指針を与えます。
 また、これは「運用型」の方針なのか?という疑念もあります。「理念型」の可能性もある。理念でしたら家訓のような物ですから、直接的な行使は最初から期待されないでしょう。むしろ下位に解釈を与えることで、その解釈を運用方針とする。上位的な方針であるのかもしれません。キリカ 2006年11月29日 (水) 17:50 (UTC)
「そういった多元性を許す文言に注目」し「枠を先に与える」ことが「意味・内容・立場を限定しうることでは」ないということが理解できません(枠を先にはめているのに、それが意味・内容・立場を限定するのでないというのは私にはさっぱりイメージがつかめないのですが……)。具体的にはキリカさんはどのような内容で、どのような形式の文書であれば好ましいと考えているのですか?またウィキペディアの方針文書は基本的に「理念」も「運用」も含んでいる物が大半だと思われるのですが、具体的に「運用型」の方針と「理念型」の方針というのはどういうものを想定しておっしゃっているのですか?(大ざっぱな方針と細かな細則とかならわかるのですが、「理念」だけ「運用」だけを述べている方針文書はほとんどないように思われるのですが。)--Kanbun 2006年11月29日 (水) 18:14 (UTC)

 具象的に例えるなら、工場や生体や成長、あるいは設計図のようなものでしょうか。そして内容は、製品、臓器、種に当たります。自動車から工場を築いていく発想法もありますが、ここでは工場が優先であり構成が重要になる。心臓と脳だけで生体は成り立ちません、心臓を切り抜いてその部分だけを記述しても、その内容は一部の臓器を表しただけになる。種はそれ自体にも意味がありますが、成長する性質があり、種を完成形とし規定するのは一元的です。
 ある種の構造主義というか。「枠」をどう捉えるかにもよります。拘束、範囲、制約とも言えますが、「枠」そのものが変化して行くとも言えます。全体を把握する前に、内容を先に規定して、後で枠をはめて行けば、その文書は部分化します。あるいは部分の中に全体を見いだしてしまい、文書の中の多義を全て書き込む羽目となり、却って無制限に増殖してしまいます。
 やり方としては、「ルールはすべて無視しなさい」に固執するのではなく、他の方針と照らし合わせ、(例えばカテゴライズしたり、英独のようにテンプレートを作成するなど)あとから内容が規定されていけば良いと思いますね。
 「理念と運用」については、ちょっと乱暴ですが「目的と手段」とも言い換えられます。おっしゃる通り多くの方針は、両方が記述されてます。敢えて分離するのなら、例えばNPOVなら、〈NPOV〉が理念であり、それを達成する為の方法が〈ノートでの議論〉。〈百科事典〉が理念であるのなら、〈そうでないものを規定〉して排除するのが運用。この「無視しなさい」は明示的なアクションを目的とした方針ではないと思えるのです。ですから理念的な側面が強いと感じました。キリカ 2006年11月30日 (木) 21:33 (UTC)

要は、「今のまま『常識に反する行動をしてはいけない』という趣旨の内容を含んだ規定が公式化されると、自分がこれまでのようなやりたい放題できなくなるのが不安なので困る。具体的な内容を規定せず、方針のカテゴリーをつくるなどすればよいのでは」、というご主張でしょうか?やっとお出しいただいたウィキペディアに関係するご提案である「カテゴライズしたり、テンプレートを作成する」というのが、なお抽象的で私にはよく分かりませんが、すでに出されている「本文を一文だけ、もしくはシンプルにして。。。」という提案とそれほど変わらないようにも思えます。私の誤読なのかも知れませんが。。いずれにせよ、キリカさんの投稿は論旨が非常にわかりにくいため、大変恐れ入りますが、キリカさんが議論をこれ以上継続したければ、具体的な対案をお示しいただけますでしょうか?(自覚されているかどうか分かりませんが、抽象的でかえって意味を不明にする「例え」ばかりで具体的内容に乏しい投稿を繰り返されるのをみていると、別ページで「対話が上手くなりた」たないのは当然のような気が私にはいたします。それでもテンプレを独断でいじって警告を受けるのと比べれば、対話をしようとしているだけ「成長」なのかも知れませんが。。。なお、対案をお作りになられるときは、くれぐれも「公式方針」等のカテゴリーを独断でいじらないようお願いしておきます。)ともあれ、粘り強く対話を続け、やっと具体的な話に少しだけ戻したKanbunさんの忍耐力の強さに敬意を表します。--Anonymous000 2006年11月30日 (木) 23:22 (UTC)
私もおそらくキリカさんは簡潔な内容のほうが好ましいと言っているのではないかと思うのですが、文書としてどのような形が望ましいと考えているのかがいまいちつかめません。「「枠」をどう捉えるかにもよります。拘束、範囲、制約とも言えますが、「枠」そのものが変化して行くとも言えます。」ということには、現在の文書を見ていただきますと、解釈の例の冒頭に「このルールは様々な解釈をされます。その例をいくつか挙げていきます。もちろん、これ以外に解釈があります。」というように、キリカさんのいうような「枠」そのものが変化する可能性については言及し、内容を固定するものでないことは示してあります。また現在の文書は「このような行動を取るのが望ましい」ということを示しているだけで「明示的なアクションを目的とした方針」であるとは私には思えません(そもそもこの文書自体が明示的なアクションにこだわらない方針について述べています。このルールはいくつかの解釈を示すのみで、何らかの処理の手順について述べているものではありません。そしてまた「望ましい在り方」について述べること理念を述べることではないでしょうか)。キリカさんがこの文書が明示的なアクションを規定していると感じたのであれば、そう感じた箇所について言及してくださると参考になります。--Kanbun 2006年11月30日 (木) 23:36 (UTC)

 例えはいくらでも出せるんですが、しかしこれは概念を認識する作業だから、伝えるのが難しいんですよ。構造ってのは説明しにくいんですよね。うーん、柔らかくするなら「原則がないのに例外なんか決められる訳がない」と言うのを、構造的に認識することかな。
 まず優等生な子が「ウィキペディアには、色んな人が参加して、色んな考えがあって、失敗したり、揉めたりして、ルールや方針が作られて来たんだよ、だからちゃんと約束を守ってね」と呼びかけます。そこでイケイケな子が「ま、そんな固く考えずに編集しなよ、取扱説明書を全部読んでからケータイをいじったりしないじゃん」と誘う。
 しかし、後者の主張だけ切り取るのはできない。取説がない状態で、「取説を読まなくても何とかなるよ」と言うのも奇妙です。これは取扱説明書があってこそ活きるセリフですよね。なのに部分的に切り取って内容を決めると、セリフの意味が消えちゃう。構造に支えられているからこそ活きる発言ならば、枠組みが大切になります。
 かと言って、ケータイの取説に「取扱説明書なんて、読まずに気楽に使って下さい」と書くのも、これまた奇妙になる。こういった意見は取説の中ではなく、取説の外にあるものだからです。ですから文書の「内容」に期待するのはお門違い、イケイケな子が発言したという「形式」が重要です。
 強い言い方をします。「どういった文書なのか?」という質問が、まずダメなんです。この文書をどうにかしようとする発想が間違ってる。解釈を内部に含めようとするのは式の括弧を取り外すことです。繰り返しますが「形式」が重要だと見てます。形式とは、個にこだわるのではなく、関連や全体の、繋がりに意味を見いだす作業です。極端な話、8割の方針やルールを修得して、その後「でも、役に立つのか?」とボソリとつぶやく、その感覚ですよ。『でも、役に立つのか?』を単独でいくら求めても分かりません。背景を知ることで始めて意味を持つ言葉だからです。そういった整合性が重要だからこそ、この文書は「形式」だけあれば十分効果を発揮するとみてます。内容は関連性の中から発生するでしょう。
 「枠」を「囲い」ではなく「組方」と捉えてみて下さい。おそらくKanbunさんは文書を規定し囲いを作る、その囲いが変化して行くと捉えていると思います。ここでは組方と見て下さい。組方ならば、よりシンプルであった方が、他の文書との関連性を持たせやすくジョイントしやすくなります。枠の変化というのは、こういった関連性についてです。そう考えますと、どうしてカテゴリを要求したかも、お分かり頂けると思います。繋げやすくなるという効果を狙ってます。そしてより背景をくっきりさせる為です。
 この場合の背景というのは、いわば陽のルールです。それ自体が効果を発揮し作用を及ぼす類いのルールです。それに対し当方針は陰のルール、これ自体は作動せず、陽のルールを抑制し、場合によっては眠らせる効果を及ぼす性質です。キリカ 2006年12月1日 (金) 13:57 (UTC)

どこから、ボールを投げてるのか?

[編集]

 えっと、明示的なアクションについて、これは、さもすれば人格攻撃に繋がるかもしれないので、ちょっと恐いな…。これまたある視座から書かれてるのが露骨に分かるんですよ。共通してるのは〈ルールの習得を奨めてる〉〈仲間になるのを奨めてる〉〈機能主義である〉。偏りが分かりませんかね… この節名から察するのはできないかな。嫌なムードなるのは避けたい。キリカ 2006年12月1日 (金) 13:57 (UTC)

この文書は一面では〈ルールの習得を奨めてる〉ものだと思います(ルールに不慣れであることを恐れることはなく、また不慣れなユーザーに一面的な対処をすることは逆にルールの理解を妨げ、初心者にウィキペディアの参加を躊躇させる原因になりうることを提案者が述べています。これはルールの存在自体については肯定的な見解であると思われます。たとえば3rrのブロックを厳格にするのではなく、3rrについてよく理解していないと思われる利用者にはブロックせずに十分な説明をしてノートでの議論に誘導するなど)。百科事典の編纂という目的のための共同体を形成しようとしているという意味で〈仲間になるのを奨めてる〉というのも問題ない解釈と思われます。〈機能主義である〉というのは、執筆者のために、より快適な編集方針を目指しているという意味でそのように表現することもできるかもしれません(ただし必ずしも「機能第一主義」を提唱しているようには思えませんが)。これが偏っているというのはどういう意味でしょうか?また「シンプルであった方が、他の文書との関連性を持たせやすくジョイントしやす」いということは安易に決定できない問題ではないでしょうか。私には簡潔な内容の文書は「他の文書との関連性」に全く言及されていなかったので、それをある程度想定する解釈を追加すべきと一貫して述べています。またキリカさんの言うようだとつまり現在のウィキペディアは「取説がない状態」ということなのでしょうか?この「取説」というのが具体的にどのようなものを指しているのかは判りませんが、少なくとも基礎的な方針文書については十分なものが用意されていると思われます。具体的にはどのような「構造に支えられて」いない状況がおこっているのでしょうか?執筆者の態度自体が「取説の中ではなく、取説の外」にあるという主張はわかるのですが、ウィキペディア自体は一応一定の方針の内側で百科事典を形成することになります。「百科事典」がどうあるべきかについてもウィキペディアは基本的な声明を表明していますので、その外側に著しく出るようなものは受け入れられないでしょう。したがって執筆者としてはある程度ウィキペディアの方針について理解をしていくのが推奨されるでしょう。もちろん無視して執筆してもかまわないでしょうが、それは基本的には修正されるものと思われます。また「カテゴリを要求」というのは、具体的に何のことだかわからず、何をカテゴライズされようとしているのか説明してくださると幸いです。議論がだいぶ脱線しているように感じられますので、できれば現在の文書内容から具体的に引用するなり、より具体的な議論をお願いします。
嫌なムードというのがよくわからないのですが、この方針と関係ない事例を持ち出すあるいは特定利用者の行動についてのものであれば、別途コメント依頼を出されるのがよいでしょう。ここでは問題のある行動云々を規定する議論は不適切と思われます。また節名についてはできれば意味内容に忠実でわかりやすいものにしてくださると幸いです。--Kanbun 2006年12月1日 (金) 14:56 (UTC)
現在のキリカさんの議論では具体的にどのような方針を目指したいのか、明確であるとは思えません。なるべくキリカさんのいう「理念」に即した形で文案など提示していただけると幸いです。--Kanbun 2006年12月1日 (金) 14:58 (UTC)
気になったので申し上げますが、「人格攻撃に繋がる」ことを述べるのは議論の発展性を考えても、あまり得策とは思えません。私には現在の方針文書が「人格攻撃」の話題につながるような点は全くないように思われるのですが。キリカさんは何か勘違いをされているのではないでしょうか?--Kanbun 2006年12月1日 (金) 15:29 (UTC)
横から失礼します。多分こういうことなんだと思います。「ルールを無視できる」というルールは乱用されると危険なので、無視できる条件を限定にしろ例示にしろ列挙する必要があるというのが現在の流れだと思います。これは「ルール全てを無視できる」のではなくて、逆説的に聞こえますが、「ルールを無視できる条件」のルールになってしまうのですね。つまり、「すべて」のはずが「かなりきつい条件」になってしまうのです。これでは当初の目的とは裏腹に実は「ルールを守りなさい」というルールなんですよ。英語版ではこれらを避けるためにシンプルになっているのかもしれません。--Zz2 2006年12月1日 (金) 15:39 (UTC)

インデント戻します。Zz2さんのおっしゃる点については諒解しています。私も将来的にこの文書を簡潔にしていくことは念頭に置いてます。しかし英語版で「荒らし」の理由として使われ、是非を問う投票が行われたこと、かつ日本語版でも同様の問題が起こりうることを考慮し、少なくとも今の段階の日本語版ではある程度整備された内容が必要であると私は考えています。私自身もできうる限り多様な解釈の余地が残されるべきという姿勢に変わりはありませんが、幸い日本語版では英語版での事情が勘案できるのでそれを踏まえて導入すべきでは?ということです。また現在の文書内容は端的に言えば「ルールを無視するときに理由を示すべきということ」を述べているだけで、しごくまっとうなもののように思えます。つまり私には「ルールを守りなさい」という文書であるとは思えません。もし、「ルールを無視するときに理由なんていらないんじゃないの?」という意見であれば、その場合にはこの文書は「ルールを守りなさい」という内容を述べていることになりますが、そういうことをおっしゃっているのではないのですよね?--Kanbun 2006年12月1日 (金) 15:52 (UTC)そういえば、英語版で「この方針は矛盾だ!」というような指摘がありましたが、「理由さえあれば全てのルールは無視できます」というルールであれば、無矛盾のような気がするのですが。この方針の言い換えとしても問題ないように思いますし。蛇足です。--Kanbun 2006年12月1日 (金) 16:13 (UTC)(蛇足追加)

まず、私は現在の草案でとりあえずは問題ないと思っています。上で言っているのはキリカさんを初めとする反対(保留かな?)している人の意見を私なりに考えてまとめたものです。さて、このルールは「荒らし」と「弾圧」との両方に使えるルールであり、非常にバランスが難しいと思われます。そう思うと、現在の「解釈例」のほかに「間違った解釈例」を同程度付け加えてから、分量を減らして分割しほうがいいようにも思います。ここで、議論に上っている「荒らしの理由にしない」と「弾圧の理由にしない」ぐらいがさしあたり必要かと思いましたがどうでしょうか?(個人的には五本の柱は無視しないもいれたいですが)(蛇足の返事)それも自分自身と矛盾しますよ。無矛盾な体系は体系自身を決める定義を決めれませんので、本質的な点で矛盾のない体系かどうかを気にするのは無意味です。参考不完全性定理--Zz2 2006年12月1日 (金) 16:26 (UTC)
基本的にはそれらも妥当であると思います。バランスを考慮して、文案に含めても良いのではないでしょうか。(蛇足の返事の返事)「理由さえあれば全てのルールは無視しなければなりません」というルールであれば「不完全性定理」を持ち出すことができるでしょう。--Kanbun 2006年12月1日 (金) 16:40 (UTC)
 つまり共同体的なしきたりを前提にした文書なんですよ。「ルールを無視」と言ってるのに、「ルールに関わる」の前提にした文言ばかりになってるのです。これは「ルールを気にしなさい」と同じなんです。「無視」の反対が「守る」ではないでしょう。「無視」という言葉も悪いんです、粗末にする意味も含んでますからね。「気楽に、気にせず、とらわれず」の意味からすれば、「ルールを守りなさい」ではなく「ルールの方を向いてろ」だけでも、十分すぎる程の拘束力が起きます。
 それと、荒らしに対してばかり気にするのも問題だと思うんですよ。「あー この方針荒らしに使えるね  え? 真義について? さぁ知らない…」これでは皮肉にも、荒らしと同じ発想じゃないですか。シャレになってます。悪用・乱用の方ばかりに気を取られ、方針の目指すものをなおざりにしてしまうのは不味いです。「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ(ニーチェ)」って事で。キリカ 2006年12月1日 (金) 20:30 (UTC)

インデント戻します。ウィキペディアは共同作業ですから、記事を書くときに「ルールに関わる」ことになるのは当然と思われます。「ルールを無視」することは「ルールに関わ」らないことではないでしょう。ウィキペディアでの作業の段階で初心者が「ルールを気に」しないことは、ルールと初心者が無関係であることではありません。初心者だから、理由のない不適切な編集が「荒らし」に当たらないというのではないでしょう。「荒らし」行為であることを必ずしも認知していない行為であるということを想定して、一面的な「荒らし」に対する対処をすべきではないということではないでしょうか。このルールにのっとればウィキペディアのルールと無関係に好き放題できるというものではないでしょう。「ルールの方を向いてろ」ということについては、初心者に接する者が、ルールに一定程度留意した上で寛容な対処をするという意味で「ルールの方を向」くというようなことを述べているかもしれません。初心者は「ルールの方を向いて」いるかどうか気にせず、まずは編集をしてみたらいかがということをこの方針は述べているように思われます。「悪用・乱用の方ばかりに気を取られ、方針の目指すものをなおざりにしてしまう」というご指摘については、「この方針の目指すもの」が、荒らしの根拠となるものではないように思われますので、その点について議論し盛り込むことは無益ではないし、蛇足的なことでもないと思われます。--Kanbun 2006年12月1日 (金) 20:39 (UTC)

節名の説明ですが、うーんと、仕方がないかな、Anonymous000さんをネタにさせてもらいます。悪気はないので悪しからず。少し脱線気味になりますが、ここで「常識と規則」「コミュニティーと合理性」です。

コミュニティーとコモンセンス

[編集]
 Anonymous000さんの行動規範は「共同体的」なんです。「村社会的」と言いますか。その丁寧さと人格に対する過剰な反応は、ある立場から見るととても偏った行動に見える訳です。
 「敬意」や「お願い」といった、感情や近接性が優先される閉じた環境になります。まさに共同体的です。ここではルールより、履歴や、評価や、信頼が物をいう。言うなればコミュニケーションゲームの世界。すなわち人格優先です。
 対して「方針」や「ルール」といった、理論やシステムが優先されると、開かれた環境になります。この空間は非人格的です。簡単に参入できる代わり、人との繋がりが希薄になる、コミュニケーションの代替わりを果たすのがマニュアルになります。言うなれば論理と合理性の世界。
 そこで「常識」とは何か考えます。常識の多くは不文律です、みんなが無自覚に振舞うことが多い。すなわち常識に期待するとは、ルールの様に成文化されていないが、みんなに共有されているであろうと期待できる行動規範の法則に委ねることです。でしたら「常識」を論じる者には理知と洞察力をもって、「常識」を成文化することが期待されるでしょう。
 ところがAnonymous000さんは、その辺りを踏まえて「常識」を語ってる様に見えない。もっと言うと頭の弱い人に見えちゃうんです。ルールスタンスの人から言うと、頭を垂れるか、威厳をみせるか、の一元的観念で動いてる、つまり上下関係を異様に気にする犬みたいに見えるんですね。制服効果みたいな感じです。
 閑話休題。常識に期待するのはコストの面では有効です。実際に効果的に機能もします。ただし欠点もいくつかあります、一つに共有性においては磐石ではない点です。必ず期待されるものとは違った常識観も存在します。この点においてはルールの方が共有されやすく確実性が高いのです。
 さて、常識とは「共通の前提をもとにした不文律による行動規範」とも言える訳です。それを共有させる為に成文化して、ルールにする作業が起こる場合もあります。では、共有されてないまま、かつ成文化もしないまま、一方が一方に一方的に「常識」なるものに従わせたら、どうなるでしょう?「共有の規範」ではありますね、ですがそれを達成する為に「排外行為」が発生します。平たく言えば「こいつは『常識』が欠落してる、出てけ出てけ!!」となる。これは常識に期待する、というより、ある常識を用いて共同体を締め上げる、かつ従わない者を追い出すことになります。これはルール以上の拘束力を発生させます。今まで何度か目撃した方もいるでしょう。また、この状態ではルールすら、排斥による秩序維持に傾きがちとなるでしょう。キリカ 2006年12月1日 (金) 22:20 (UTC)

 そして、ウィキペディアはと言うと、やはり共同体的なんですよ。なんたってプロジェクトですから、否応無しに同じ人と顔を合わせる事になります。気の合う人、合わない人、色々いるでしょう。IDの登録も人格を形作る効果があります。

そして、現在の文案は共同体的な側面がむき出しなんです。いくつか例を挙げると、

  • 「常識」と「ルール」が同じ節になってますが、普通この二つは同時に使う必要ありません。常識に頼るならルールはいりませんし、ルールを使うなら常識は眠ってもらうことになる。
  • 「体験を通じてルールを学ぶ」に至っては、語義矛盾な文言です。ルールは体験しなくとも学べるのが利点ですから。
  • 全般的にコミュニティー重視な文面、なのにルールを覚えさせる。これは両立させる必要は必ずしもなく、仲間重視ならルールに頼る必然性もないです。ルールと常識の両方を課すのは軍服着せてる様なもんです。
  • 管理人が無償のボランティア云々に付いては論理的には意味がない。これはシンボリックな効果を狙ってるだけです。何かをシンボルにしたてるのは共同体そのもの。


 そんなこんなでKanbunさんは、その一員に組み込まれてるんですよ。「初心者を教育したり、関わったりするのは大事でしょ?」的な発想は、人間関係重視であり、ある方向に偏ってる印象は否めない。
 だとしたら、「どこからボールを投げてるか(視座)」分かるじゃないですか、「初心者の教育と、健全なコミュニティーの構築」です。となれば、この文書に「内容」を付与することになる、その結果、形式的な位置づけから発生する「ルールを打ち消す劇薬的な効果」や「知の集積を目指す理念の妨げとなるなら、ルールには眠ってもらおう」という「内容」は自然と消滅します。これは「内容」を与えてしまうと消えてしまう性質です。キリカ 2006年12月1日 (金) 22:20 (UTC)

以上の点につきましては、なるほど、キリカさんのおっしゃっていることは「人格攻撃」的であるように思われます。私は他人をどうこう評価することには慎重にあるべきと思っているので、そういう点での評価はできれば差し控えたいのですが、ただ1点だけ申し上げさせていただければ、Anonymous000さんが「上下関係を異様に気にする犬みたいに見える」という点には私は全く別の評価を持っています。ウィキペディアに上下関係があるというのも、おそらく方針上は全くそのようなものは建前上存在していないとは思いますが、仮にそれが特定の権限を持った管理者を上位に置くというような観点を述べているのであれば、Anonymous000さんは管理者がこのルールに依拠する際の「説明責任」を明確にすべきことを論じ、管理者にも一定の配慮を求めているという意味で「上下関係」を従順に(犬のようにという表現がこういう意味であれば)適用しようとしているというのは誤解です。「頭を垂れるか、威厳をみせるか、の一元的観念で動いてる」という点に関しては、私も傾聴すべきと思う意見には頭を垂れますし、やや不適切だなと感じる意見には(威厳をみせるという表現とはやや異なりますが)一定程度自分の見解の「意地」は見せます。ので、そういった行動が問題かどうか、そもそも「あるのかどうか」というのは私には個人的な主観の問題で、また方針の議論とは基本的に別個の問題であると思われます。「もっと言うと頭の弱い人に見えちゃうんです。」という発言は本方針の検討とは関係が無く、またその表現が私には侮辱的な言質のように思えますので、そういう発言はお控えください。
さて、キリカさんがコミュニティの在り方について一定程度の危機意識を持っているというのは十分に伝わるのですが、つまるところ「視座」を示すだけでは、方針文書の内容についての検討には無意味であると思われます。
  1. 「常識」と「ルール」が同じ節になってますが、普通この二つは同時に使う必要ありません。常識に頼るならルールはいりませんし、ルールを使うなら常識は眠ってもらうことになる。→ルールと常識を普通同時に使う必要がないというのは私には理解できません。またこの節はルールの精神を常識にしたがって判断して細かなルールの規則を逸脱することが可能であることを述べていると思われますので、キリカさんのいう「ルール」が方針文書に記載された文面的な意味での「ルール」であるならば、常識に基づいてそれを逸脱して良いことを述べています。したがってこの意味では「同時に使う必要」について述べているという解釈はおそらく誤解ではないでしょうか。
  2. 「体験を通じてルールを学ぶ」に至っては、語義矛盾な文言です。ルールは体験しなくとも学べるのが利点ですから。→語義矛盾であるというのはおそらく誤解であると思われます。社会規範などは明文化されたものでなくても慣習的に成立し、通用しているものがあることは珍しくありません。不文律や慣習法などといった言葉はまさしく経験的に形成されてきた規範で明文化されないものを意味します。また一般的な作法の習得といったことや、スポーツのルールといったことを考えても、それは全く体験以前に明確に認識できることはないでしょう。明確な法文についても同様です。
  3. 全般的にコミュニティー重視な文面、なのにルールを覚えさせる。これは両立させる必要は必ずしもなく、仲間重視ならルールに頼る必然性もないです。ルールと常識の両方を課すのは軍服着せてる様なもんです。→コミュニティー重視であるときにコミュニティーの活動を円滑にするために一種のルールを設けることは特に珍しいことであるとも思えません。またそういったルールをコミュニティーの成員に認知させ、覚えさせようとするのはしごくまっとうではないでしょうか。
  4. 管理人が無償のボランティア云々に付いては論理的には意味がない。これはシンボリックな効果を狙ってるだけです。何かをシンボルにしたてるのは共同体そのもの。→これにいたっては全く当方針とは関係ないと思われるのですが、私には「無償のボランティア云々」は事実に反することであるとも思えませんので、「シンボリックな効果を狙ってるだけ」という見解には納得できません。
ともかく私にはキリカさんの意見がこの方針の内容とは本質的にはあまり関係がないもので、かつ実際のところ現在の内容自体についてはキリカさん自身は明確な反対意見を持っているのではないように思われます。私にはキリカさんの意見は非常に感覚的なもので、しかもたびたび自身で定義する用語を変えるなど、一貫性があるものとは思えません。ここではコミュニティーの在り方についての抽象的な議論をしているのではなくて、あくまで一個の方針文書について吟味しているところです。とりあえずコミュニティーのあり方自体を問題にしているのであれば、井戸端で議論されることをお勧めします。
誹謗中傷はくれぐれもお慎みください。--Kanbun 2006年12月1日 (金) 23:40 (UTC)

矛盾について

[編集]

 実は、矛盾については、文言とはまた別の矛盾が宿ってます。参入しやすくする為、つまり初心者の為に、「ルールは気にしなくてもいいよ、まず参加」と呼びかける一方。初心者にとってはルールの方が安全なんですよ。右も左も誰を信頼すればいいかも分からない、不安な状態では、まずはルールに縋った方が安心なんです。これさえ守ればひとまず大丈夫だろうと。もう一つルールとは逆に安心させてくれるのが「Wikipedia:井戸端」です。これは行動・規則よりも、人間的な安心感です。誰かに見られているのは、監視でもありますが保護でもありますから。キリカ 2006年12月1日 (金) 22:20 (UTC)

私にはキリカさんの意見はあまり本方針とは関係がないように思われます。キリカさんが問題視しているコミュニティの在り方については「Wikipedia:井戸端」で安心させていただいたらいかがでしょうか。おそらくここはどう少なめに見積もっても「行動」や「規則」についての話題が出てくるでしょうから、井戸端の方が「人間的な安心感」が得られるというのでしたら、そちらで本心を吐露してみてはいかがでしょうか。なにせここは一応ルールについてのノートですから。「文言とはまた別の矛盾が宿って」いることについては、今はルールの「文言」を検討しているのですから、その矛盾を「文言」に反映させることができないならば、全く顧慮するに当たらないでしょう。--Kanbun 2006年12月1日 (金) 23:40 (UTC)
思うに、「常識」に代表される押し付けが問題なんでしょう。変な言い方ですが、「もっと気楽に無視できる」ルールであるべきなんですね。この方針に従って、文面を大幅に変更してみます。--Zz2 2006年12月2日 (土) 04:12 (UTC)
この改変はとてもいいですね(^^)。賛成です。(Kanbunさんも、「常識」ではなく「良識」の方がいい、と前に言っていましたよね〜このご意見にも賛成)。「頭が頭の弱い」とか「犬みたい」と平気で書き込むユーザーを相手にする元気が私にはなぁ、とか思っているうちに、建設的なご修正を頂けたZz2さんに感謝いたします。望むべくは、これ以上「頭が頭の弱い」とか書き込みながら、意味不明の長文の投稿を続ける方に対して、どなたかが会話ページに書き込みを止めるよう警告していただくことかなぁ。(すでにKanbunさんから、ここで警告していただいているような気もしますが。。)とすると、後は、これ以上そのユーザーがこのページに書き込みを続けるなら、誹謗中傷個人攻撃)や、破壊行為コミュニティを消耗させる利用者等の理由によって投稿ブロックするか、コミュニティの審議に回すくらいかなぁ。。と、キリカ氏に対して、このページでのこれ以上の書き込みを止めるようここで警告します。--Anonymous000 2006年12月2日 (土) 06:13 (UTC)--2006年12月2日 (土) 06:22 (UTC)typo・キリカ 氏の指摘を受け、不正確な引用を訂正。2006年12月3日 (日) 13:54 (UTC)

インデント戻します。よくまとめられた文面になったと思います。大変感謝します。私個人としては「一文程度の簡潔な内容がよい」という意見には、この方針がある程度まとまった形で公式化されたなら、公式化された時点で簡潔な内容と説明内容に分割しても良いと考えています。なぜ一度公式化してからではないと分割に反対かというと、公式提案の際の主流な反対意見がやはりあまりにも簡潔であるということにあると思われ、私個人もそれに賛成ですし、公式化の前に分割して一方が草案段階で、一方が公式文書というような不釣り合いを避けたいためです。また英語版を見ましても、この方針についての議論も結局解釈を巡るものになっています。つまり一文のみのあまりに抽象的な内容はこの方針の有効性を高めるどころか逆に低めてしまうように思われます。したがって将来的に現在とは異なる解釈で運用される可能性を考慮しても、それはそういう提案がおこなわれたときに変えればいいのであり、現在としては適切と思われる解釈を方針に付随させることは将来的な拡大解釈を基本的に制限するものではないと思っています。ただ確かにあまりに煩雑になるとこの方針のユースフルな側面が失われるかもしれないという指摘には賛同します。個人的には今くらいの内容はコンパクトでちょうどいいくらいだと思われるのですが。--Kanbun 2006年12月2日 (土) 23:49 (UTC)

「以前の文面で「常識」が押しつけられているように感じる」という指摘には、私も個人的に「常識」という表現は一種の独善を含む気がしますので、たしかにそうかもとは思います。現在の文面はその点もだいぶ手直ししてくださったようで、個人的によいものと思っています。--Kanbun 2006年12月3日 (日) 00:02 (UTC)