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Wikipedia‐ノート:コメント依頼/おいしい豚肉

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本文より転記 

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  • 両者歩み寄りが必要な状況と思います。コメント依頼のタイトルが一人分だけなのでおいしい豚肉さん側に注目しますが、言葉尻を取り上げずに意図を汲み取ってみると、通俗書の類を専門的な記事の出典として使わないでほしい、というのが氏のご意見の趣旨かと。その趣旨は一応理解はできるものの、一般には、仮に専門家の間では否定された説であったとしても、それを除去するのが最適とは限りません。「俗にこういう話もあるがこれはよくある誤解であり、専門家は○○と言って否定している」といった書き方の方が、より教育的になったりすることもあるかと。「誤解」を除去するのでなく「誤解」である旨を明記する、ということです。こういった場合、前段に使うには通俗書も有用です。ウィキペディアは、専門家だけが読む論文ではありませんので、啓蒙的な役割も果たすべきです。 --163.49.213.64 2017年12月9日 (土) 06:16 (UTC)[返信]
    • コメントありがとうございます。お返事が必要かと思ったのですが、コメント依頼のテーマからはやや離れることになるのでノートで失礼させていただきます。通俗書に誤りが多く含まれていること、こうした誤りに対する啓蒙が必要であること、全く同感であり、同じ考えの方がいたことを心強くも思います。しかし、現実問題としてwikipediaで通俗書に含まれる類のデマを啓蒙することは、方針などを考慮しますと大変困難ではないかと愚考します。今回私が翻訳して立ち上げたネァイリングはIP氏のおっしゃる啓蒙の意味を込めたものです。これを『聖剣伝説』と引き比べればかの書が誤っていること、ほとんどの方が理解できると思います。しかし、現実問題としてこれ以上踏み込むのはwikipediaの方針上極めて困難と言わざるを得ないのではないでしょうか。wikipediaの記事の上で、ここから更に『聖剣伝説』を引用し、この書の間違いを指摘することは厳密には私は「独自研究」に相当すると考えています。仮に、専門書が直接「~などと書く書があるが、これは誤りである」と指摘していれば喜んでこれを引用し、通俗書の批判に使わせていただきますが、実際には専門書が通俗書を真面目に否定することはない、というのが実情です。例外があるとしたら、「江戸しぐさ」や「ヒトパピローマウイルスワクチンの薬害騒動」レベルにまで話が膨らんだ場合です。ほとんどのデマは明確に否定されず生き残り続けるというのは、通俗書のものに限らず一般的な話ではないかと思います。
私はまた、フェルグス・マク・ロイヒの記事に『Airtech の戦い』というフェルグスのアルスターへの帰還譚があることを追記しています。これは実は新紀元社の別の書籍に「フェルグスがアルスターへ帰還することはなかった」と書かれていたため、それを否定し啓蒙するために追記したものです。しかしこれ以上は私にはwikipediaの方針を守りつつ書くことはできません。通俗書のデマに対するwikipedia上での啓蒙という戦いはこのように消極的に展開し、目敏い読者の方が気付くことを祈ることしかできないと考えています。よろしければお返事いただけると幸いです。--おいしい豚肉会話2017年12月9日 (土) 23:49 (UTC)[返信]
  • すみません、結論部分が抜けていました……。つまり私は、通俗書はほとんどの場合で肯定的な意味でも否定的な意味でも出典とすることができず、無視するしかないという立場です。--おいしい豚肉会話2017年12月10日 (日) 18:37 (UTC)[返信]
俗説と学術的な説がどちらかがどちらかを名指しで批判する関係でない場合は、併記でしょうね。併記にしても、どちらがどれくらい有力なのかを示すように書くことはできます。複数の専門家がいっていると確認できる説であれば主流説、単一もしくは信頼性の劣る情報源のみの説は少数説という感じです(WP:UNDUE)。 --210.149.250.139 2017年12月29日 (金) 05:18 (UTC)[返信]

通りすがりです。この話題は個人的には個人間のコメント依頼に発祥したままにするには惜しい議題ではあると思います。表での硯箱氏の見解までの部分を含めて、広く井戸端などで多くの人の目に触れて欲しい内容と感じております。対話内容を含めてこの議論やプロセス自体が、アーカイブとして恐らくは今後の参加者の多くに極めて有用ではないかと。良質な知に至る入口とプロセスは多様であって良いと個人的には思っており、それが通俗書を通じて記事の編纂で手を動かしながら、記事に関わる議論として進む機会があっても良いとは思うんですよね。但し、そういった入口から先について対話やナビゲートできる利用者への負担が重くなり過ぎつつある現状は、もう少しどうにか効率的に変わっていけないものかなとは思います。この類のケースについて間違った編集を人力で指摘し対話していく以外に、他にどのような手法があり得るのか、御参加の皆様の御見解は一度拝聴させて頂けたらとは思います。Wikipediaの今後について、無学者の拙筆ながら一応発言まで。--106.184.21.49 2017年12月16日 (土) 05:47 (UTC)[返信]