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ウィリアム・ジョージ・アストン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
W・G・アストンから転送)
William George Aston
1911年
人物情報
生誕 (1841-04-09) 1841年4月9日
イギリスの旗 イギリス 北アイルランドロンドンデリー
死没 1911年11月22日(1911-11-22)(70歳没)
出身校 クイーンズ大学ベルファスト
学問
研究分野 東洋学
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ウィリアム・ジョージ・アストン: William George Aston1841年4月9日1911年11月22日)は、英国の外交官、日本学者で朝鮮語の研究者でもある[1]。アストンは、19世紀当時、始まったばかりの日本語および日本の歴史の研究に大きな貢献をした。アーネスト・サトウバジル・ホール・チェンバレンと並び、初期の著名な日本研究者である。フリーメイソン[要出典]

経歴

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成人まで

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アストンは、1841年4月9日アイルランドロンドンデリーの近郊で生まれた[2]。1859年から63年までクイーンズ大学ベルファスト校で学び、頭角を現した。大学ではラテン語ギリシャ語フランス語ドイツ語文献学、および現代史を学んだ。教授の一人はジェームズ・マコッシュ(James McCosh)であった[3][4]

日本

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1864年元治元年)英国公使館勤務日本語通訳生として来日。1869年に英国長崎領事館勤務から兵庫大阪勤務へ異動し、2か月ほどで東京に転任する[5]。2年先に来日していた2歳年下のアーネスト・サトウと共に、日本語の動詞の理論を研究した。この難解な研究は、西欧の学者による日本語研究の基礎となるものであった[4]。この結果を基に1869年1871年には日本語文法書を出版している。1870年の賜暇休暇の際には藤田隆三郎を伴ってアイルランドに帰国し、新婚の妻ジャネット(1854-1908)とともに藤田を世話した[5][6]

1884年には領事試験に合格した。江戸・東京および横浜の公使館に勤務していたサトウとは異なり、アストンは神戸および長崎の領事を務めた[3]1886年(明治19年)には通訳としての最高位である日本語書記官に就任した[4]

日本アジア協会会報の執筆者の一人で[4]1896年日本書紀』を英訳、1899年『日本文学史』、1905年『神道』を執筆した。

朝鮮

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アストンは日本滞在中に朝鮮語通訳から朝鮮語を習っていた、1879年にはロンドンの王立アジア協会で「日本語と朝鮮語の比較研究」[7]と題する長文の論文を発表している。神戸の領事館に勤務中の1880年11月頃、日本に密航しサトウを訪問した李東仁(イ・ドンイン)から卓挺埴(タク・ジョンシク)を紹介され、2ヶ月ほど朝鮮語を学んだ。その後も、アストンを訪れる朝鮮人は多かった。1882年6月6日朝鮮と英国の間に最初の条約であるウイルズ条約が結ばれた。アストンは到着が遅れこの条約の交渉には参加しなかったが、そのまま仁川に残った。結局、ウイルズ条約は内容が不十分として英国で批准されず、翌1883年11月26日、駐清公使に転じたハリー・パークスによって調印されたパークス条約が両国間で締結された最初の条約となった。このとき、アストンはパークスの補佐を務めた。この条約に基づき、1884年にアストンは朝鮮駐在の最初のヨーロッパ人外交官(領事)となったが、政治状況が不安定となったため、1885年に朝鮮を離れた[3]。しかし、1885年から1887年にかけて、東京でKim Chae-gukを教師として朝鮮語を学び続けた。キムはアストンの勉強のために、いくつもの物語を語った[3]。アストンはこの朝鮮民話の原稿をサンクトペテルブルククンストカメラ博物館に寄贈し[8]、2004年に出版された[9]。アストンのコレクションは現在はロシア科学アカデミーに保管されている[3]

晩年

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1889年に病気のため外交官を辞職[3][4]イングランドに落ち着いた[10]1911年11月22日に死亡。晩年、サトウが収集した日本語文献を譲ってもらっていたが、自身が収集した分と合わせ、1万冊もの日本語文献を所有していた。この蔵書は彼の死後1912年にケンブリッジ大学図書館が購入し、これが同図書館の日本語コレクションの基礎となった。

著書

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  • 文法書
  • 日本語からの翻訳
    • Nihongi:Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697, London:Kegan Paul 1896. (ペーパーバック:Tuttle Publishing;Tra edition (July 15, 2005) ISBN 978-0804836746
  • 研究書
    • A history of Japanese literature. 1899.(ペーパーバック:Publisher:Simon Publications (August 2001) ISBN 978-1931313940
    • Hideyoshi's invasion of Korea. Ryubun-kwan, 1907.
    • Shinto:the Way of the Gods, London:Longmans Green and Co. 1905.(ペーパーバック:Kessinger Publishing, LLC (September 20, 2004) ISBN 978-1417948727
    • Shinto:The Ancient Religion Of Japan(ペーパーバック:Kessinger Publishing, LLC (July 9, 2006) ISBN 978-1428646667
    • Shinto, Transaction and Proceedings of the Japan Society, London, 1908

日本語訳

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伝記

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脚注

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  1. ^ Kornicki, P. F. (2004). "Aston, William George (1841–1911)," Dictionary of National Biography (DNB);ジョセフ・ヘンリー・ロングフォード. (1912). DNB, 1901-11 supplement.
  2. ^ Princess Grace Irish Library (Monaco):Aston, bio notes
  3. ^ a b c d e f Kornicki, Peter. "Aston Cambridge and Korea," Cambridge University, Department of East Asian Studies, 2008.
  4. ^ a b c d e Gilman, D. C.; Peck, H. T.; Colby, F. M., eds. (1905). "Aston, William George" . New International Encyclopedia (英語) (1st ed.). New York: Dodd, Mead.
  5. ^ a b 研究ノート 藤田隆三郎の留学をめぐって 角田茂、中央大学史紀要, 第15号, 2010年03月06日
  6. ^ William George Aston Find a Grave
  7. ^ "A Comparative Study of the Japanese and Korean Language," The Journal of the Royal Asiatic Siciety of Great Briain and Ireland, New Series, Vol. 11, 1879
  8. ^ Ким Чегук (Kim Chae-guk). Корейские новеллы. / Пер. и комм. Д. Д. Елисеева (D.D. Eliseev). (Серия «Памятники культуры Востока». Вып.9) СПб, Петербургское востоковедение. 2004. 599 стр. "Эти рукописи получил в дар от автора, почти неизвестного корейского писателя XIX в Ким Чегука, английский исследователь Кореи У.Г.Астон (1841-1911), собиравший корейскую простонародную литературу."
  9. ^ Ким Чегук. Корейские новеллы. Из корейских рукописей Санкт-Петербургского филиала Института востоковедения РАН / Факсимиле рукописей. Перевод с корейского;Uliana Kobyakova, 'A study on the Corean tales' According to Aston's transcription, the editor of the storybook Corean Tales was Jae Kuk Kim a Korean teacher of Aston's at the British official buildings located in Jong Dong, ソウル in 1885.
  10. ^ Ruxton, Ian. (2008). Sir Ernest Satow's private letters to W.G. Aston and F.V. Dickins:the Correspondence of a Pioneer Japanologist from 1870 to 1918, p. xiii., p. xiii, - Google ブックス