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The Quarterly Journal of Pure and Applied Mathematics

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
The Quarterly Journal of Pure and Applied Mathematics 
過去名 The Cambridge Mathematical Journal
The Cambridge and Dublin Mathematical Journal
略称 (ISO) Q. J. Pure Appl. Math.
学術分野 数学
言語 英語
詳細
出版歴 1836–1927
出版間隔 3か月
プロジェクト:出版Portal:書物
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The Quarterly Journal of Pure and Applied Mathematics は、1855年に創刊された数学雑誌。1836年に創刊し、4巻を出版した『The Cambridge Mathematical Journal』と名前を変え9巻を出版した『The Cambridge and Dublin Mathematical Journal』の後継として、出発した[1]。創刊号では1855年4月の序文が掲載され、6, 9, 12, 3月の3か月毎に刊行することを約束した。同号内の論文には、1854年11月まで遡るものもあった。第1巻には1857年1月の序文が付加された。当初から、雑誌の継続と運営は困難であることが判明していた。

同雑誌は新しい名の下で、ジョージ・ストークスアーサー・ケイリーに支援され、ジェームス・ジョセフ・シルベスターノーマン・マクラウド・フェラーズ英語版に編集された。パリでは、シャルル・エルミートが最初の15巻まで共同編集を務めた。1879年の第16巻から1885年の第20巻までは、フェラーズ、ケイリーとジェームズ・グレイシャーアンドリュー・フォーサイスによって編集された。しかしその後の10年間で、編集者の離職が相次いだ。フェラーズは1891年の第25巻、ケイリーは1893年の第26巻、フォーサイスは1895年の第27巻の出版の後に辞めた。そのため、1896年の第28巻からはグレイシャーが、1870年3月の創刊時から独力で出版してきた『Messenger of Mathematics』と同様に、雑誌の単独編集者になった。

MessengerQuarterlyの両雑誌は、グレイシャーに非常に依存していたため、1928年にグレイシャーが没した後の継続は困難となった。この結果、1920年半ばにゴッドフレイ・ハロルド・ハーディが2つの新たな雑誌『Journal of the London Mathematical Society』と『Quarterly Journal of Mathematics英語版(オックスフォード出版局の季刊誌)』を創立することになった。ハーディはこのとき、ロンドン数学会長官と、オックスフォード大学サヴィル幾何学講座教授英語版を務めていた[2]

出典

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  1. ^ Crilly, Tony (2004), “The Cambridge Mathematical Journal and its descendants: the linchpin of a research community in the early and mid-Victorian Age”, Historia Mathematica 31 (4): 455–497, doi:10.1016/j.hm.2004.03.001, ISSN 0315-0860, MR2105134 
  2. ^ Hardy, G.H. (1928–1929), “Dr Glaisher and the 'Messenger of Mathematics'”, Messenger of Mathematics 58: 159–160 

外部リンク

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