金城裕
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金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10月10日)は、沖縄県出身の空手家。韓武舘において防具付き空手による組手稽古を主導し、空手における最初の全国大会である全国空手道選手権大会の開催に貢献した。多くの人物に師事した経験から評論家としての面を持ち、雑誌や著作物での執筆活動も精力的に行った。
来歴
[編集]1919年生まれ。沖縄県出身。1926年に唐手を始め、奥里将現、知念三良、大城朝恕、真栄城朝徳、徳田安文、花城長茂に師事。1939年には修道館の遠山寛賢に師範免状を授与され、1945年に遠山寛賢の高弟らによって東京九段に韓武舘が設立されると副舘長に就任する。韓武舘は後に全日本空手道連盟(旧)に発展。金城はその際、神道自然流の開祖である小西康裕とともに、副会長に就任。以降、有倫館、芝浦工大、山梨大、茨城大で指導にあたる。1948年には摩文仁賢和より自筆の糸洲十訓を授与される。1950年に「大朝会」を設立。その後日本空手道研修会に改称して指導を続け、2011年、研修会宗師範を退任する。2013年10月10日、肺炎のため死去[1]。
空手道の研究活動
[編集]韓武舘時代から執筆活動にも熱心であった金城は空手研究家としても著名であり、主な主張として以下のようなものがある。
- 韓武舘の館長を務めた尹曦炳について、「若い事業欲ある才人」であり、「彼が空手界にかかわった年月は短いけれど、残した業績は大きい」と評し「このように書いても空手界の人はすぐには納得しないと思う」も述べている[2]。
- 韓武舘が戦後GHQの占領下の中、早期に活動を活発にし、空手冊子等を発行できたことについて、「尹館長が韓国籍で、当時第三国人として特権階級に属していたからである」と述べている[3]。
- 金城は船越義珍については空手の素人であったと述べ、その実力について否定している[4]。
逸話
[編集]- 遠山寛賢に師範免状を授与されたが、「花城先生に申し訳なく、また貰う立場にない」と、翌日に師範免状を返しにいったとの話がある。
- 「本土に渡った空手家の多くは、沖縄神社での奉納演武にも出られない者で、沖縄では『本土で素人が空手の大家のふりをしていて問題だ』と話されていた」と発言している。これについては、第二次世界大戦で奉納演武の記録が消失しているのと、金城自身も師などに聞いた話のため、検証が行えない。
- 徒手空拳だけでなく伝統派空手の武器術にも精通していた。特に棒術の大家大城朝恕に師事していたため、棒術が得意で、「その棒術は粘るようで、試合をすれば必ず棒を奪われた」と三谷和也が述べている。