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Category‐ノート:日本の神/神話の概念他

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神話・日本神話等の見解

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胡亂堂氏のコメント(Category‐ノート:日本の神より一部転記)

ご回答ありがとうございます。上でも述べましたが、余り皆様を疲弊させるのも本意ではありませんので、そろそろ本案件から退散しようと考えてはおりますが、独自研究とのご批判を受け、かたがた私の理解力・表現力の乏しさから誤解し、かつうは誤解を受けたままであるのも寂しいので、Stella maris 様からのご批判に対する弁明だけでも(暗黒な方 様、月下薄氷 様を無視している訳ではありません、単に心に余裕がないのです。お許し下さい)。

  • 1) 「神話」「伝説」「昔話」について、どこがどう批判されているのかよく分かっておりません、すみません。念の為に申しますと、この3者を具体的に適用した場合に「相互排他関係」にないからこそ弁別不可能だと申し上げております。相互排他的であれば、弁別可能なのですから(これは独自研究、と申しますかただの感想)。
(Comment) 最初に印象ですが記しますと、胡亂堂様は、演繹的に問題を考え進めようとされているように見受けられます。つまり、「神話」とは何か?で、神話の概念が諒解できた、そこから、「この話は神話である」、「あの話は神話でない」等、胡亂堂様がご自分で判断し識別しようとなさっているように思えます。私見では、何が具体的に神話であるかは、文献学者・古典学者・神話学者等の専門家が、神話だとしているものが神話で、私たちウィキペディア編集者はそれに従うという原則です。私たちが「何が神話か」を具体的に判断することは避けねばならないと考えます。
さて、そこで、「神話」「伝説」「昔話」の区別と云うか概念規定ですが、何故このような概念の違いの説明があるのかです。それは端的に言いますと、「神話であって伝説である物語」「神話であって昔話である物語」が実際に存在するからです。何が神話かは、古典学や神話学が決めますが、何が伝説かは、歴史学や文学などが決めます。そのため、例えば、『イーリアス』などはギリシア神話に間違いないのですが、文学様式から云うと、叙事詩で伝説の物語ということになります。「何が神話か」「何が伝説か」を決める広義での基準学問が違っているからです。そ0のため、具体的な作品や物語だけで考えていると、神話と伝説はどう違うのか分からなくなります。そこで、「差異性」を強調した「神話」「伝説」などの概念規定が行われ、説明が行われるのです。しかし、この「概念規定」に従って、神話や伝説が分類されているのではないのです。先に、具体的な神話とされる物語や、伝説とされる物語があり、概念規定は、この後から出てきているのです。
つまり、概念の説明・定義では、「差異性」が強調され、相互排他的に見える定義・説明が行われるのですが、それは、神話や伝説を区別して把握するためで、概念において「差異性」が明かでないと、定義にならないのです。しかし、具体的な作品は、定義とは別のところで、神話か伝説か昔話か決まっているのです。そしてそれは、相互排他的ではないのです。胡亂堂様は、ご自分で、ある物語が神話か伝説か昔話か決めようと考えていられるように見えるのですが、そういう区別や、また範疇の重なりがあるかないかは、専門家が決めることで、私たちは専門家が述べていることに従うだけです。専門家のあいだで意見の相違がある場合は、「意見が分かれている」と記事に記すだけです。説明が長くなりましたが、要点は、神話か伝説かというような問題は、定義の前に決まっている。決めるのは伝統や専門家で、少なくとも私たちではない。「私たちが自分で判断しようとすると非常に難しい」これは事実ですが、判断する必要はないのです。--Stella maris 2009年10月2日 (金) 22:56 (UTC)[返信]
  • 2 「日本神話は通常、記紀神話及び、それと同水準の伝承を指すもののはずです」 - 逆にお伺いしますが、出典はございますか? 私は「日本神話」を定義した覚えはありませんし、深く詮索するとぐっちゃぐちゃになるために、とりあえずは曖昧に「日本の(=日本にある)神話」と理解しているだけです(定義と言えば定義かな?)。ちなみに、手元にある初心者向けの概説書を見ましても『日本神話の○○』と題しはしていても、「日本神話の一部としての記紀神話を対象としますよ」的な明示、乃至は黙示をしておりますので(これは検証可能)、当然記紀神話以外の「神話」を認めているように感じます(これは独自研究。ただし、上田正昭先生などは『日本神話』(岩波新書)において、記紀神話だけが日本神話ではないと明言しておられます)。再三申し上げますが、仮令「日本神話」が「記紀神話及び、それと同水準の伝承」とされた場合でも、まず「それと同水準」の範囲がどこまでなのかがあやふやだと思いますし(時代で区切るとしても、その神話が記録された時点での区切りとなろうかと思いますが、神話や説話に対してそのような区切りは有効なのでしょうか?)、何よりもそこから外れる神話伝承は「日本神話以外の日本の神話」とでもなるのでしょうか?
(Comment) これについても、同じような傾向が見受けられるように思えます。私たちは信頼できる参考文献を元に、「日本神話」とは何かを把握し、それを記事に記述すればよいので、私たちが日本神話の定義をあれこれ考えるのではないと思います。
さて、「出典」ですが、角川書店の『世界神話辞典』を挙げます(他にも参考書籍はあると思いますが、わたしは、日本神話関連は詳しくなく、むしろほとんど知らない友既に述べておりますので、一冊の本でお許し願います。この本の337ページから343ページまでは、「日本の神話」と題された章で、ここで「日本神話」について説明されています。
[引用]……八世紀初めに成立した『古事記』『日本書紀』は、このような国家成立の経緯を統治者の立場から記述した歴史書であり、日本の神話はほぼこの両書の冒頭部に記録されているが、……[1]
章の題は「日本の神話」ですが、節では「日本神話」を使っているので、これが日本神話の伊藤氏による定義乃至説明です。ここで「ほぼ」という言葉が入っています。つまり、記紀の記述以外にも日本神話はあるということです。それは、「紀一書」であり、また幾つかの『風土記』とされています。伊東氏は具体的には、『出雲国風土記』と『播磨国風土記』を挙げています。「記紀の神話」の背景には数々の神話や伝説が存在したことを述べてはいますが、具体的な書名や伝説名は、この参考書の記事には、以上述べたことしか記されていません。「記紀神話」の背景にある神話・伝説を伝えていると立証できる写本等があれば、それは、伊藤氏の説明する日本神話の一部にはなるでしょう。しかし具体的な写本への言及などはありません。
これは「日本神話」の専門家による説明と言えますが、「記紀神話及び、それと同水準の伝承を指すもの」というわたしの言葉は、伊藤氏の説明に合致するのではないかと思います。他の参考文献ではどういうことが記されているか知りませんが、少なくとも、ウィキペディア編集者が、自分で、これら以外にも「日本神話はある」と主張するのは、そう主張している信頼できる出典に基づかない限り、妥当とは言えないはずです。--Stella maris 2009年10月2日 (金) 22:56 (UTC)[返信]
  • 3 仰せの通りの理解でしたので、神話って何だろうと思い、ケレーニの『神話学入門』の序説(晶文社)、『ギリシヤの神話-英雄の時代』(中公文庫、原題は「ギリシヤの英雄」ですが)の訳者(上田兼義)によるあとがきや、エリアーデの『永遠回帰の神話』(未来社)を斜め読みし、これは埒が開きそうにないなと匙を投げて、それらと同趣旨である(これは独自研究の譏りを免れませんが、そう思いました)西郷先生の『古事記の世界』(岩波新書)の「結び」にある説に飛びついた次第でして(「歴史的に書けば歴史で、神話的に書けば神話だ」というのも西郷先生説を要約したものです)、決して私が勝手に下した定義ではありません(そんな力量も持ってません)。むしろ、この論争を経、上記遍歴を辿った(僅か数冊ですが)ことで得た認識であり、私が飛びつき縋った定義なのです。もっとも、誰の定義を借用するか、どんな認識を得るか自体が独自研究に該当しますので、ご批判ご尤もと叩頭するしかございません。
(Comment) ここで、わたしが「独自研究」となると述べましたのは、演繹的な発送があるように思えたからです。つまり、西郷氏が「神話の語り方」を述べ、ベンヤミンが「神話の時間」を述べるとき、彼らは、すでに神話と学術的に認められている対象について、それらの神話物語の「語り方の本質性」や「時間構造のありよう」を説明しているので、2,3時間前に起こったことでも、それに衝撃を受けた人たちには、神話となりえる、とか、関ヶ原の合戦を神話的に語れば神話になる、など、西郷氏もベンヤミンもそんなことは述べていないはずです。誰が述べているかというと、胡亂堂様です。
胡亂堂様が「演繹的に」にアプローチしていると感じるのは、「神話とは何か」が理解できれば、胡亂堂様が自分自身で、これは神話で、あれは神話でない、と自分で判断しようと意図されているようにしか見えないためです。しかし、何が神話かは、古典学者や神話学者が決めるのであり、ギリシア神話だと、それが扱う範囲は、2000年ほど前にすでに決まってしまっています。何が神話かは、古典文献学や神話学が神話だと云っているものが神話で、私たちがこれは神話であるとかないとか決めるのではないのです。
「神話」という言葉は比喩的に使用されていて、或る面で乱用されているとも云えます。「マイケル・ジャクソンは、現代のポップ音楽の神話である」というような感じです。しかし、マイケル・ジャクソンは、神話学が対象とする「神話の人物」にはならないのです。しかし、神話は現代においても生成されているはずなので、マイケル・ジャクソンを神話として研究する神話学者が出てくるかも知れない。しかし、私たちは、勝手に「現代の神話」を判断してはならない。--Stella maris 2009年10月2日 (金) 22:56 (UTC)[返信]

以上、枝論3点についての弁明でした。

なお、案件の本論に関する部分に対してですが、これも正直私への批判が那辺にあるのか、そもそも批判されているのか、がよく分かりませんでした(理解力が乏しいため)。あえて申せば、前半部分、「独自の考えで、カテゴリ編成を主張」しているとの批判については、そのつもりは毛頭なく、同意へ向けての過程における1つ(いやもっとかな?)の疑問を呈しているに過ぎず、「多数の人の同意」で決するのであれば仕方がないなとは思っております(暫時納得は出来ないでしょうが)。

最後の部分は一番分からなかったので、一番ちんぷんかんぷんな弁明になろうかと思いますが、月下薄氷 様が私の日本の神と神道の神についての見解について、ヒンヅー教とヒンヅー神話との関係に比べると「宗教的なカテゴリの話と古典学的なカテゴリの話とが混同されている印象」を受けられた点について、日本(特に神社神道)だと「古典学的」な部分(記紀神話)が現在も「宗教的」なもの(神道)の基になってるために混同せざるを得ませんと申し上げましたまででして、ここでヒンズー教で例えればよかったのですが、不案内なのでギリシヤを引っ張ってきたために混乱に拍車をかけてしまいました、すみません。インドやギリシヤとは状況が違いますよという点を申し上げるのが私の意図するところでしたので、「そんな認識でカテゴリ設定の話をして頂いては困る」点についてはお詫びの仕様もなく、ひたすら寛容を願うのみです。いろんな認識がある中での話にならない私見ですが、他山の石としてご愛用いただければこれに過ぎる幸いはございません。--胡亂堂 2009年10月1日 (木) 11:55 (UTC)[返信]

(Comment) わたしとしては、このような物言いをしたことについて、わたしの不明によるものと認識に、胡亂堂様には深くお詫びさせて頂きたくも思っております。不快感や疲労感をもたらしたことにつきましては、わたしの責任と受け取っております。そのことについてはお許し願いたく思います。
そのことは、そのこととして、わたしは、胡亂堂様は、古典学とか古典文献学とは何かがよくお分かりではないのではという印象を受けています。古典学や古典文献学は、古典文献・資料等についての系統的な研究とも言えます。まず、写本や資料を基に、物語が本来はどういう形であったか、写本の異同などを元に原形を復元しようと云う研究があり、また、誰がどの作品の作者だったのか、誰はどういう作品を書き、どのような生涯を送ったのか。歴史学に似ていますが、文献や資料に特化されているとも云えます。また、古代ギリシアなら、例えば、moira という単語・言葉は、どういう意味で、どういう風に使われていたのか。時代や地域により意味や用法の違いはどのようになっていたか。あるいは、まとまった物語や詩の作品があれば、これは当時の人はどう解釈していたのか、どう理解していたのか、こういっことを、古典の文献・資料を元に研究して行く学問で、この学問は、ギリシアだと、紀元前7世紀には既に存在しています。
日本の神話関係だと、記紀神話は『古事記』と『日本書紀』が出所ですが、これらの写本・資料の本来の形という問題があります。本来どういうテクストであったのかです。また、これらに出てくる言葉・単語や、慣用句の古代における意味や、用法の変遷や、地域的な違いないも研究し、また物語についても、当時の人はどう理解していたのか、どういう解釈があったのか、話は何を意図していたのか、等々、問題が無数にあります。近現代的な解釈では、記紀神話の逸話は何かの比喩・暗喩・象徴に解読できる場合があり、このような解読・解釈はどこまで妥当か、なども日本の記紀に関する古典文献学は問題にします。本居宣長などは、古代神話に対し独自の読解というか解釈を出したのですし、また『万葉集』を研究して、古代には日本語には近現代には消えてしまった母音の区別があったという発見も、これも日本の古典文献学での成果です。
紀元8世紀にも、記紀は神社にあり、神官がこれを朗唱するか祀って、まつりをおこなっていた。現代でもやはり同じ記紀の文献があり、神社の神官(神主)がこれを知っており、祀り、祭儀を行っている。従って、古代の記紀は現代に連続しており断続がない、即融している。……とそれは、古典学とか古典文献学の意味が分かっていないということになります。8世紀の神社の神官が『古事記』を読むと、まず発音が違っていて、文章から読みとる意味や比喩や象徴も現代とは違ったものを感得していた。ではそれはどういうものだったのか……こういう研究が古典学の一部にあるのです。古典文献学は、研究対象を信仰の対象として見るのではなく、探求や解読、復元、理解の研究対象として見るので、「信仰する者」とは違う視点が出てくるのです。古典研究者が同時に信仰者でも別に問題はないのであり、その場合、信仰者の立場と研究者の立場は違ったものになるということが言えます。
記紀神話であっても、あるいは神社の祭神、神社の縁起譚、祭儀の様態、信仰のありよう、教義、これらについて近現代に関する知識を幾ら詳しく持っておられても、古代においてはどうであったのか、近現代と同じであった訳がなく、神社神道は同じであったと主張していると云っても、それは信仰者の立場からの話で、何の客観性もないのです。古典文献学の立場では別のものが見えてくる、という言葉に対し、古典時代(古代)の記紀神話と現代の記紀神話は同じものなので、区別する必要がないというのでは、些かというか、たいへん困るとも云えます。上に述べましたが、古代日本語には、現代は区別していない母音が存在した。どうしてそういうことが分かっているかというと、古代の文献を研究していて発見した訳で、このような研究が古典学なのです。
何かたいへん傲慢なことを長々と書いてしまい、申し訳なく思っています。上から教えるような驕った態度にわたしの言葉はなっていると思いますが、他に適切な言葉や説明の方法を持ちません。これはわたしの無能さや不明として、何卒寛恕願いたく思います。最後に、再度、非礼な言葉の数々をお詫びします。--Stella maris 2009年10月2日 (金) 22:56 (UTC)[返信]
(追記) 「日本神話」というのは、「ギリシア神話」がそうであるように、日本の古典文献学では、一種の固有名詞になっているのではと思います。近現代になって日本で誕生・生成された神話というのはいろいろある訳で、天理教大本教などは神話を持っており、幸福の科学も随分いい加減ではないかと主観的には思いますが、ある数の信者がいる「神話」を持っています。これらは、しかし「日本神話」というには何か違和感があります。学者によって意見の相違がある可能性があります。何にしても、分かりにくい、独りよがりな長文については、お詫び致します。--Stella maris 2009年10月2日 (金) 22:56 (UTC)[返信]

ご懇篤なご説明ありがとうございます。論旨の流れにおける当方の発言を誤解されている(と思われる)点やお聞きしたい点も幾つかあるのですが、余裕がないので(これも誤解されているようですが、本議論ではなく実生活上でです)弁明や質問は控えます。ですが、せっかくのご回答に対して何も発言しないのも礼を失しますので1点のみ。以上をまとめますと、「日本神話」は固有名詞であり、『古事記』と『日本書紀』の本文及び一書、『出雲国風土記』、『播磨国風土記』のみが該当する(伊藤清司先生説)、ということですね。で、表でも述べましたが「記紀神話以外は日本神話ではないのか?」という問にどなたも答えて下さらずに暈かされたまま議論が拡散している憾みがございまして、どんなに神話っぽくても記紀神話及び、それと同水準の伝承を有つ播磨と出雲の両国風土記以外は「日本神話」ではない、ということを表で述べていただけると論点も明確になり、合意形成に向けて前進するかと存じます(記紀の神武天皇以降のどこまでが神話の範囲なのか(或いは全部?、若くは皆無?)、播磨出雲2国の風土記のどの部分が神話の範囲なのか(全部?)もお示しいただけると尚一層拍車がかかるかと)。もっとも、ほぼ合意はなされており、当方の撤退で円満解決なのですが、御礼言上もありましたので、かたがた最後のお願いをさせて頂きます。--胡亂堂 2009年10月3日 (土) 07:20 (UTC)[返信]

2に関連して。角川書店『世界神話辞典』の同個所では、≪『古事記』と『日本書紀』の本文及び一書、『出雲国風土記』、『播磨国風土記』のみが該当する≫とは述べておりません。≪『記紀』神話にない神話も少なくない、たとえば…≫と述べた後で『出雲国風土記』、『播磨国風土記』の2書を挙げられているのであって、限定的に言っているのではないのです。ちなみに胡亂堂さんのいう上田正昭氏の岩波新書『日本神話』の文言は『日本の神話を考える』でも登場します。そして≪『記紀』神話だけが日本の古典神話ではない≫の文言の後に、暗黒な方さんのいう文献+α(『万葉集』の歌謡、『延喜式』の祝詞)を列記し、これらを貴重な遺産、軽視すべきでないと述べておられます。--月下薄氷 2009年10月4日 (日) 14:45 (UTC)[返信]
こんにちは。月下薄氷様の仰られる通りで、月下薄氷様がわたしの記述の不備を指摘されていますことはその通りとも思います。ただわたしとしましても、わたしは、// 「記紀の神話」の背景には数々の神話や伝説が存在したことを述べてはいますが、具体的な書名や伝説名は、この参考書の記事には、以上述べたことしか記されていません。 // と記しており、単に「具体的な書名や伝説名」は、『記紀』「記一」、二つの風土記が挙げられていると述べているので、これらの書物だけが「伊東氏が述べている日本神話の資料」だとは限定的に述べてはいません。しかし、誤解を招く表現であったことはお詫び致します。--Stella maris 2009年10月4日 (日) 16:01 (UTC)[返信]
当方が所有している、大林太良・吉田敦彦両氏の監修になる『日本神話事典』(大和書房、1997年) ISBN 978-4-479-84043-5 では、説話を採録した対象となる原典として『古事記』、『日本書紀』、『風土記』(逸文含む)、『万葉集』、『古語拾遺』、『先代旧事本紀』、『祝詞』(延喜式のもの)、『日本霊異記』を挙げています。このうち『日本霊異記』は仏教説話集ですので神話の原典として挙げるべきかは微妙ですが、それ以外は神話の原典として、月下薄氷さんの挙げられているものと一致していると思います。--暗黒な方 2009年10月8日 (木) 04:35 (UTC)[返信]
暗黒な方さんが新たな文献を示されてついでに、学研の『ブックエソテリカ 日本の神々の事典』について述べておきます。この書は文献について明確な定義はありませんが、神々については『記紀』を中心に、祝詞から瀬織津比売などの神、『山城国風土記逸文』から賀茂建角身命、といった神々が述べられています。網羅するほど詳しくありませんが、文献的には上記のものとおおよそ一致していると思われます(それ以外では人物神、民俗神のページもあります。中世の縁起譚の類は述べられていません、ページ的な余裕がなかったせいかもしれませんが)。--月下薄氷 2009年10月10日 (土) 21:20 (UTC)[返信]

お久しぶりです。撤退しようかと思ってましたがやっぱり気になりますし、何らかの決着を見ないと気持ちも悪いので、未練がましいですがお邪魔します。大部纏まってきたようですが、まず、

  • 「日本神話」とは、漠然とした「日本の(日本に伝わる)神話」ではなく、固有名詞である。

というStella maris 様のご意見を前提にする点は異論なしでいいわけですよね(その場合、「日本神話」の定義などの改稿は必須となりますが)。で、その対象なのですが、縦へある文献においては「『○○』など」という例示にすぎないものであったとしても、その「など」についてはStella maris 様は演繹不可と仰有っているので、あくまでも明示されているもの(例示であるとしても)に限らないといけないということでよろしいですよね?で、で、その対象は、伊藤清司先生説は大林太良・吉田敦彦両先生監修『日本神話事典』(大和書房)に禅るとして、

  1. 『古事記』
  2. 『日本紀』
  3. 『風土記』(逸文含む)
  4. 『万葉集』
  5. 『古語拾遺』
  6. 『先代旧事本紀』
  7. 『延喜式祝詞』
  8. 『日本霊異記』

のみとする、でいいでしょうか?(「のみ」と限定しないと、議論が始めからやり直しとなり、永久に解決しませんので) で、で、その場合なのですが、例えば『古事記』だと西郷信綱先生のようにこれを丸ごと(つまり推古天皇まで)神話と見る見方もありますが、それでいいのか。また『日本紀』だと「神代紀」はいいとして「神武天皇紀」以降のどこまでを神話と見るのか、『風土記』だと「○○山は○○を産する」といった記述内容も神話なのか、逸文だと和銅撰進のみなのか、延長も含めるのか、或いはその他不確かなものも含めるのか、『万葉集』以下もどこまでを神話とするのか、といった点、つまりは各文献のどこからどこまでを神話と見るかを、何らかの文献をもとに詰める作業に進んだ方がいいかと思います。でなのですが、とりあえず議論を表に移行しませんか(表では停滞してますので)。--胡亂堂 2009年10月12日 (月) 16:33 (UTC)[返信]

表に移るのであれば、その前にいくつか指摘を。Stella marisさんが胡亂堂さんのことを「演繹的」と言っているのは神話の定義についてであって、文献についてではないと思いますが。
『風土記』のデータ的記述を神話だという人はいないと思います(汗)。前にも述べたように神話とは世界の始まりから人間社会の展開に関する、古くからの伝統的な物語です。神話の内容についてそこまではっきりと限定しなければならないかというと多少疑問がありますが、少なくとも古代においてすでに伝統的であり、歴史的時間から隔たった神話的時間の物語であることが条件だと言えると思います(なお、神話の定義については法政大学出版局から刊行されている、イギリスの古典学者G・S・カーク著『ギリシア神話の本質』における、一般的な神話の定義に関する部分を参考にしています)。
日本神話が固有名詞かどうか、については「よく分らん」というより他にありません。実際のところ『広辞苑』第2版の日本の項には日本神話は無いようです。
1974年初版の『ブリタニカ国際大百科事典』15巻には「日本神話」の項目があり、執筆者は松本信広氏で、その最初の一文で日本神話を『記紀』、『古語拾遺』、『風土記』、「祝詞」などの文献における神々主体の物語の総称としたうえで、神話を広義に解釈して昔話、伝説、民間伝承をも含める傾向もあることを認める一方、それらを民俗学の主題でもあるとして本項では『記紀』神話を中心に扱う旨を述べており、その範囲については神功皇后までを扱っています。他方、神仏習合などの中世的発展については結語で簡潔に触れるにとどまっています。--月下薄氷 2009年10月14日 (水) 05:20 (UTC)[返信]
えっと、縦い当方の「神話の定義について」が「演繹的」だと批判されているだけだとしても、「何を以て日本神話とするか」は畢竟「神話の定義をどうするか」にかかっており、従いまして後者において演繹が不可ならば当然前者においても不可にならざるを得ないのではないでしょうか?・・・やっぱりまとめるのは無理なのですかね。--胡亂堂 2009年10月14日 (水) 16:26 (UTC)[返信]
どうしてもと言われるなら、文献については上述のものでもよいと思いますよ。『日本霊異記』は微妙な感じがしますが、役小角に関連して述べられている一言主神の話は『日本霊異記』でしたね。しかしきちんと目を通していないので正確にはわかりかねますが、一言主神ぐらいしかないならば、『日本霊異記』は一言主神の項で取り上げればいいのであって、日本神話の文献としてあえて挙げることもないと思います。とりあえず保留ではだめなんでしょうか? ほかの人の意見も聞きたいところですが。--月下薄氷 2009年10月17日 (土) 06:26 (UTC)[返信]
『日本霊異記』に関してですが、『日本神話事典』で扱われている説話の項目をざっと見た限りでは一言主以外の神が登場することは確認できませんでした。前述のように仏教の説話集ですし、しかも唯一登場すると思われる神も他の文献に見えるので殊更に取り上げることはないんじゃないかと思います。
あと胡亂堂さんは文献の範囲を限定するべきと仰いますが、神話と見られるのはあくまでも文献の中の説話であって文献そのものが神話というわけじゃないでしょう。『風土記』の地形の説明や『古事記』序文、『万葉集』の「貧窮問答歌」や「防人の歌」までもが神話と見られることはないと考えられますが、それっていちいち明記する必要性があるんでしょうか?--暗黒な方 2009年11月4日 (水) 12:05 (UTC)[返信]
同感です。--月下薄氷 2009年11月21日 (土) 10:43 (UTC) 結局のところ、今までの議論で出た≪暗黒な方さんの挙げる文献+いくつかの文献≫でいいのでは? --月下薄氷 2009年12月4日 (金) 03:55 (UTC)[返信]

脚注

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  1. ^ 『世界神話辞典』伊藤清司「日本の神話」p.337。

参考文献

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  • 大林太良・伊藤清司他編『世界神話辞典』角川書房、1994年初版 ISBN 04-031600-2 C0514