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Category‐ノート:スキル/Note

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Category‐ノート:スキル は、あまりに容量が大きくなってしまっているので、こちらにサブページを造り、もう少し詳細に、Hsz 氏との「話のずれが」どのようになっているのか説明します。--Maris stella 2007年4月21日 (土) 04:00 (UTC)

話の対応性の問題

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「Hsz」氏には、どうも理解ができないのですが、他の人のコメントが自分の書いた文章に対応するものだという認識がないというか、「発言-応答ーそれに対する応答……」というように、コメント(応答)がある場合は、それは先行する発言に対するコメントであるという風に理解されていないように思えます。どうして、このようなずれが起こるのか、「論理性の欠如」というより、何か、別の理由があるのではないかと疑問が起こってきます(思い込みが強く、他の人の述べていることを、他の人の意見として、素直に読みとれないように見えます)。以下に、「発言-応答」がどういう風になっているのか、説明し、Hsz 氏がこのような「発言ーレスポンス」の対応関係を把握していないということを、冗長は覚悟の上で、説明します(幾ら何でも、自分が何を書いたのか、理解できないはずはないと思うのですが、どうも分からないようにしか思えません)。

さて、長々しい引用などになりますが、仕方がありません。段階を分けて説明します。

第一段階

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まず、「Hsz」氏の発言を次に引用します:

……Maris stellaさんに尋ねますが、このノートや記事スキルを読みましたでしょうか? 突然このノートで議論に参加していることが非常に不思議です。いつも決まった人しかこの議論に参加しなかったのに、いきなり削除と言いだすことが不思議でなりません。Category:スキルの代わりにCategory:技能に置き換えたいという意見がありますが、Maris stellaさんはCategory:スキルCategory:技能に置き換えたいという考えでしょうか? まだ現在進行形で議論が続いているときに削除を迫ることは乱暴というものです。--Hsz 2007年4月19日 (木) 17:01 (UTC)

この文章は質問文になっています。そこで、それに対する答えというか、レスポンス・説明として、次のように、すぐ下にコメントを書きました:

……また、ここでの議論は誰でも読むことができるのであり、カテゴリー関連のウィキプロジェクトでも、カテゴリをめぐる議論として紹介されています。わたしがここで介入したのは、僭越なことですが、「昨日の考えと今日の考えは別だ」と Hsz 氏が述べているので、これでは、そもそもまともな議論が成立しないと判断した為です。(なお、議論が延々続いていることは承知で、それ故「提案」を出しています。議論が収束しているか、存在しない場合は、別にここで提案などせず、削除依頼の必要があると判断すれば実行します。「削除依頼に出してみる」という提案も議論の一つなのです)。--Maris stella 2007年4月19日 (木) 18:40 (UTC)

突然このノートで議論に参加していることが非常に不思議です。」等と述べておられるので、ウィキペディアでは、議論はオープンなもので、記事の編集も論争がある場合は別として、突然に編集しても自由であり、議論なども、途中で突然入ってきても、それも自由です。普通は挨拶をしますが、わたしの場合、「提案」という形で意見を書いたので、挨拶は、最初の発言ではなく、上の文章の「わたしがここで介入したのは、僭越なことですが」という言葉を挿入することで、突然に議論に入りましたがお許し願いますということを含意させています。

ノートの議論は、そこに発言していなくとも、読んでいる人はいるのであり、あるタイミングで、読んでいる人が意見を述べることがあるというのは別に不思議なことではないのです。その説明として、「ここでの議論は誰でも読むことができるのであり、カテゴリー関連のウィキプロジェクトでも、カテゴリをめぐる議論として紹介されています。」と記しているので、「不思議だ」というので、不思議なことではありません、という応答を書いているのです。

また、「まだ現在進行形で議論が続いているときに削除を迫ることは乱暴というものです。」と「Hsz」氏が述べられるので、「(なお、議論が延々続いていることは承知で、それ故「提案」を出しています。……。「削除依頼に出してみる」という提案も議論の一つなのです)。」このように説明しています。

(コメント)コメント依頼でかなりのレッテルを貼られて誤解されているようなので、ひとつひとつ反論したいことを反論し、気になったことについて意見を述べていきます。記事とは直接関係ない話題なだけにいちいち反論する必要性も価値も無いと思っていましたが、コメント依頼であんなに誹謗されレッテルを貼られるとは予想外なのでここで正しいこと間違っていることをはっきりと述べられるだけ述べた方がよさそうですね。念のために書いておきますが、反対はしたものの、削除依頼を拒絶した覚えはありません。「昨日の考えと今日の考えは別だ」に近いことを発言したかも知れませんが、振り返ってみると、結局、私の考えの根本的な部分は変わっていなかったと思います。「乱暴すぎる」とは言い過ぎだったかもしれませんね。「わたしがここで介入したのは、僭越なことですが」と書いただけで「突然に議論に入りましたがお許し願います」と即座に理解できる人は少ないと思います。「僭越」という人が滅多に使わないと思われる言葉を使って遠慮気味になったつもりでも、あとから根拠無き批判やこじつけがあれば、本当に「僭越」だと思っているのだろうか? と思うことがあるかもしれませんよ。Maris stellaのコメントがいきなり現れて長々と批判的な意見が出たわけですから、今までの議論の経過をちゃんと見てきたのか疑問に思って、「突然このノートで議論に参加していることが非常に不思議です。」と発言をしました。実際、議論に途中から入っていくユーザの中には、議論の経過を見ずにいきなり批判的なコメントを残す人もいますから。Wikipedia:ウィキプロジェクト カテゴリ関連はまだできたばかりであり、存在に気づかない人は多いようです。bcjpさんもそのような発言をなさっていました。「一覧」形式の記事があればカテゴリがいらないという人やカテゴリに興味が無いという人もいるので、Wikipedia:ウィキプロジェクト カテゴリ関連の存在はますます気づきにくく、限られた人にしか目に付かないものだと思います。まずはここまで返答します。--Hsz 2007年5月9日 (水) 14:18 (UTC)

第二段階

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以上のような経過なのですが、これに対し、「Hsz」氏の返答というかコメントは、何か驚くべきものでした。以下は、「2007年4月20日 (金) 19:59 (UTC)」の Hsz 氏の上のわたしのコメントに対するコメントの前半当たりです:

……途中から私も考え方が変わっています。色眼鏡をかけてものを見ないで下さい。『また、ここでの議論は誰でも読むことができるのであり、カテゴリー関連のウィキプロジェクトでも、カテゴリをめぐる議論として紹介されています。』と発言しているようですが、実際のところどうでしょうか。あなたがこう発言した後、私は、急遽コメント依頼をだし、井戸端でも質問し、告知もました。このカテゴリに関する記事のノートやいくつかのポータルにも大量に告知をしました。この議論はだれでも読むことができても、この議論に気づいている人は非常に少ないということです。「井戸端で気づいた」と発言している人が現れたことがその証拠です。このことから、やはり、Maris stellaさんの発言には詭弁が目立つと言われてもおかしくはないでしょうし、それは事実ですので個人攻撃にはあたりません。

これはたいへん奇妙な読み方というか解釈で、どうなっているのかと思います。

この議論に気づいている人は非常に少ないということです。」と記されていますが、「この議論は誰でも見ることができる」とは、文字通り、誰でも見ることができるという意味で、わたしがこの議論を知っているのも、「カテゴリー関連ウィキプロジェクト」に掲示があったことも一つの理由だという説明だったのですが、「この議論に気づいている人は非常に少ない」というのは、ウィキペディアでは当たり前のことで、またその事実の指摘が、一体わたしの先の誰でも議論は見えるというのと、どういう論理関係にあるのか不明とも言えます。「誰でも見ることが出来るが、実際に見ている人は少ない」というのは、これは「事実」であって、しかし、前半と後半は、何かの因果関係で結びついているものではありません。

「誰でも見ることが出来る」ので、興味ある話題があると、サイトや掲示板にもの凄い多数の人がアクセスして、サーバーの負荷の為、閲覧ができなくなることもあります。ウィキペディアのなかでも、面白そうな議論や、削除依頼などには、多数の人が集まったりすることもあり、場合場合で、見ている人の数などは違って来ます。「誰でも見ることが出来る」は、「大勢の人が見ている」とは必ずしもつながらないのです。

そこで、もっと驚くのが次の発言です。「「このことから、やはり、Maris stellaさんの発言には詭弁が目立つと言われてもおかしくはないでしょうし、それは事実ですので個人攻撃にはあたりません。

「このことから」どうして、「わたしの発言には詭弁が目立つ」などという結論が出てくるのかです。「第一段階」でのコメントの意味を度外視しても、この「このことから、やはり……」は理解不能です。

「誰でも見ることが出来る」→「実際に見ている人は少ない」→「Maris stella は詭弁が目立つ」

どういう論理関係なのか、いかなる論理展開なのか、理解できません。どなたか、理解できる方はおられるでしょうか。

同じコメントの後半当たりは分けて、「第三段階」とします。

第三段階

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……Maris stellaさんは、『わたしがここで介入したのは、僭越なことですが、「昨日の考えと今日の考えは別だ」と Hsz 氏が述べているので、これでは、そもそもまともな議論が成立しないと判断した為です。』という発言を誤解なさっているようですが、その考えは、具体的には、別というよりも以前よりもまとまっているということです。議論の末、お互いに自分の考えに間違いを指摘されることもあります。そのときは考えを改めなければなりません。当然のことです。さもなければ議論が進まないからです。ただし、一貫性だけは崩しません。つねにアイデアは進化してゆくものだということを理解して下さい。「考えが変わった」という意味はそういう意味です。それを議論が成立しない口実として利用してまで勝手な判断をして欲しくはないです。--Hsz 2007年4月20日 (金) 19:59 (UTC)

「昨日の考えと今日の考えは別だ」というのは、どういう意味で別なのか、具体的にどういうことなのか、これを発言した「Hsz」氏には、ある特定の意味で云ったのだ、というのは理解できます。しかし、「どういう意味で云ったのか」について、わたしは何も述べていません。簡潔に事実を述べただけで、当人も「「考えが変わった」というのはそういう意味です」と述べていて、「考えが、過去と今では変化した」と明言しています。自分で、「過去の考えと、いまの考えは別です」という趣旨のことを明言された以上、それは事実であって、どういう意味合いでそう云ったのかは、ここでは関係がありません。

後で述べていますが、議論をしているとき、考えが変わった場合は、それを明言し、謝罪などして、議論の内実に変更を加えてください、というのが議論などでのマナーです。「昨日のわたしが云ったことは、いまのわたしが云ったことではないので、混同しないでください。いまのわたしの考えに対してコメントや意見を願います」と書けば、このようなことを云う人とは議論ができないと判断するのが普通です。

更に、「それを議論が成立しない口実として利用してまで勝手な判断をして欲しくはないです。」と述べていますが、これも奇妙な話です。「Hsz」氏がどういう意図で、そう述べたのか、説明しないと分からないようなことは、「述べた事実」でしか判断できません。これと似た例は、「参加者の意見のまとめ」において、「Hsz」氏の意見として他の人がまとめたものに、反論を加えたりしているものがあります。

議論の参加者が、理解してまとめた意見集は、その議論に参加している人たちがそれを見て、「うまくまとまっています」というような感想などが出れば普通問題なしです。あるいは、「それは違うのでは」というような異論が出て修正ということもありますが、まとめに対し、すべてに反論を書くというのは、これでは、議論が成立しません。「Hsz」氏が何か述べたので、「こういう意味か」と理解していると、それを例えば上のように「昨日と今日は考えが違う」のように、述べた内容だけを引用すると、「それは違う」と云って、更に別の説明が加わって来るような場合、どの発言も、普通に読んで意味を理解するということができなくなります。理解したと思った内容を、述べると、それは違うと云われると、少々の誤解ならともかく、すべて違うというような感じで訂正発言が出てくるようだと、議論も話し合いも進めようがないのです。

第四段階

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上の発言に対するコメントあるいは反論として、

>『いい加減にして戴きたいとも思います。「また、ここでの議論は誰でも読むことができるのであり」とは書きましたが、「ウィキペディアの利用者は全員読んでいるのであり」などとは書いていません。

で始まる長い文章が出てきます。「2007年4月20日 (金) 23:30 (UTC)」付けのわたしの発言です。あまりにも誤解というか曲解というか、あるいは論理的に繋がらない意味不明な主張があるので、ウィキペディアの事情とか、その他色々なことを説明しなければ、話が通じないと思ったというのがあります。

「「ウィキペディアの利用者は全員読んでいるのであり」などとは書いていません」というのは、第二段階で記しましたが、次のような論理飛躍があるからです:

「誰でも見ることが出来る」→「実際に見ている人は少ない」→「Maris stella は詭弁が目立つ」

この後ろの二段の論理展開は、「実際に見ている人が少ないという事実が分かった」ということから、「Maris stella は詭弁が目立つ」という風に繋がっているのですが、これを論理的に整合するものと理解しようとすると、

「誰でも見ることが出来、実際、多数の人が見ている」→「いや、実際に見ている人は少ないという事実が判明した」→「Maris stella は詭弁が目立つ」

このような論理展開だと考えないと理解できないので(こういう意味に勘違いして理解した可能性を考え)、わたしは、「ウィキペディアの利用者は全員読んでいる」などと書いていないと述べました。実際に書いていません。

さて、この後にも、あまりにおかしなことを「Hsz」氏が述べているので、これまでの経緯を含めて、長々しくなるのは承知の上で、ともかく説明を書いたのですが、Hsz 氏には文章読解力がないのか、何かどこかで根本的にすれ違いが起こっているのか、理解不能な主張・コメントが帰って来ました。

ここまででも、相当に長いのと、「Hsz」氏の論理性が疑わしいということを明らかにしたと思いますので、ここでとまれ擱筆します。--Maris stella 2007年4月21日 (土) 04:00 (UTC)


この件について反論したいことがありますが、Category:スキルに関する議論と著しくかけ離れる恐れがあり、他にも優先すべき事があるので、今は他のことを優先して反論は後回しにします。--Hsz 2007年4月22日 (日) 13:11 (UTC)