斎藤桃太郎
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斎藤 桃太郎(さいとう ももたろう、1853年9月15日〈嘉永6年8月13日[1]〉 - 1915年〈大正4年〉12月26日)は、日本の宮内省官僚。宮中顧問官。東京府士族、旧幕士[1]。
人物
[編集]当初、外務二等属として働くが、1883年(明治16年)7月、宮内省御用掛に転じる。以後、式部官、左大臣秘書官、宮内書記官、宮内大臣秘書官、有栖川宮家令、東宮大夫、等を歴任する。この間、能久親王葬儀掛、島津忠義葬儀掛、東宮御婚儀御用掛なども務めた。1905年(明治38年)1月には、帝室会計審査局長官に就任し、同職在任中に、昌子内親王御婚儀御用掛、常宮御用掛、竹田宮御用掛、富美宮御用掛、朝香宮御用掛、宗秩寮審議官、大喪使事務官、有栖川宮家務監督などを兼勤する。1914年(大正3年)7月、長官を免官となり宮中顧問官に任じられたが、翌年の12月に薨去し正三位に叙された。
官歴
[編集]- 1875年(明治8年)6月5日 - 在イタリア公使館付三等書記見習[1]
- 1876年(明治9年)5月9日 - 書記二等見習[1]
- 1879年(明治12年)12月12日 - 任 外務三等書記生[1]
- 1881年(明治14年)8月20日 - 任 外務書記生[1]
- 1883年(明治16年)
- 1884年(明治17年)
- 1885年(明治18年)3月12日 - 太政官御用掛 兼勤、左大臣秘書官[5]
- 1886年(明治19年)
- 1887年(明治20年)
- 1888年(明治21年)
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)
- 1891年(明治24年)
- 1895年(明治28年)
- 1897年(明治30年)
- 1898年(明治31年)
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)11月29日 - 任 東宮大夫、叙一等、賜二級俸、当分 内事課長心得、有栖川宮別当心得[33]
- 1902年(明治35年)
- 1903年(明治36年)
- 1904年(明治37年)1月6日 - 東宮沼津行啓供奉[41]
- 1905年(明治38年)1月23日 - 任 帝室会計審査局長、叙一等[42]、賜一級俸[1]
- 1906年(明治39年)9月26日 - 有栖川宮別当伊藤勇吉不在中代理[43]
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)6月5日 - 依願免 竹田宮御用掛[50]
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)6月2日 - 免 朝香宮御用掛[54]
- 1914年(大正3年)4月11日 - 大喪使事務官[55]
- 1914年(大正3年)4月12日 - 評議所評議員(大喪使)[56]
- 1914年(大正3年)
- 1915年(大正4年)
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[61]
- 1891年(明治24年)12月7日 - 正六位[62]
- 1896年(明治29年)
- 1901年(明治34年)7月20日 - 従四位[65]
- 1906年(明治39年)7月30日 - 正四位[66]
- 1911年(明治44年)8月10日 - 従三位[67]
- 1915年(大正4年)12月27日 - 正三位[68]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[69]
- 1893年(明治26年)12月28日 - 勲六等瑞宝章[70]
- 1895年(明治28年)10月31日 - 勲五等双光旭日章[71]
- 1898年(明治31年)6月28日 - 勲四等瑞宝章[72]
- 1902年(明治35年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[73]
- 1904年(明治37年)12月27日 - 勲二等瑞宝章[74]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日重光章[75]・明治三十七八年従軍記章[76]
- 1908年(明治41年)4月30日 - 勲一等瑞宝章[49]
- 1915年(大正4年)
- 外国勲章佩用允許
- 1880年(明治13年) - イタリア王国:イタリア王冠勲章カヴァリエーレ[79]
- 1883年(明治16年)8月13日 - イタリア王国:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章カヴァリエーレ[80]
- 1885年(明治18年)5月25日 – スウェーデン=ノルウェー連合王国:ワァーサ第三等勲章[81]
- 1888年(明治21年)3月6日 - ロシア帝国:二等聖スタニスラウス勲章[82]
- 1890年(明治23年)5月6日
- 1892年(明治25年)9月1日 - ハワイ王国:王冠第二等勲章[84]
- 1894年(明治27年)8月8日 - シャム王国:白象第三等勲章[85]
- 1896年(明治29年)10月23日 - 安南国:龍星第三等勲章[86]
- 1897年(明治30年)9月10日
- スペイン王国:イサベル・ラ・カトリカ勲章キャバレロ・グランクルス[87]
- イギリス帝国:銀製ジュビリー記念章[87]
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)5月17日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章コマンドール[90]。
- 1904年(明治37年)11月29日 - 大韓帝国:勲一等大極大綬章[91]。
- 1905年(明治38年)9月20日
出版物
[編集]- 斎藤桃太郎『英皇即位六十年祝典參列日誌』1897年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 「宮内大臣正三位勲一等男爵波多野敬直外八十二名「斎藤桃太郎 履歴書」」 アジア歴史資料センター Ref.A10112795700
- ^ 『官報』第148号「叙任及辞令」1883年12月24日。
- ^ 『官報』第382号「叙任及辞令」1884年10月4日。
- ^ 『官報』第383号「叙任及辞令」1884年10月6日。
- ^ 『官報』第507号「叙任及辞令」1885年3月13日。
- ^ 『官報』第777号「叙任及辞令」1886年2月6日。
- ^ 『官報』第778号「官庁事項」1886年2月8日。
- ^ 『官報』第983号「叙任及辞令」1886年10月8日。
- ^ 『官報』第1065号「叙任及辞令」1887年1月21日。
- ^ 『官報』第1275号「叙任及辞令」1887年9月27日。
- ^ 『官報』第1431号「叙任及辞令」1888年4月11日。
- ^ 『官報』第1486号「叙任及辞令」1888年6月14日。
- ^ 『官報』第1638号「叙任及辞令」1888年12月13日。
- ^ 『官報』第1662号「叙任及辞令」1889年1月16日。
- ^ 『官報』第1821号「叙任及辞令」1889年7月25日。
- ^ 『官報』第2065号「叙任及辞令」1890年5月21日。
- ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
- ^ 『官報』第2195号「叙任及辞令」1890年10月22日。
- ^ 『官報』第2230号「叙任及辞令」1890年12月3日。
- ^ 『官報』第2349号「叙任及辞令」1891年5月2日。
- ^ 『官報』第2501号「叙任及辞令」1891年10月29日。
- ^ 『官報』第3708号「叙任及辞令」1895年11月06日。
- ^ 『官報』第3751号「叙任及辞令」1895年12月27日。
- ^ 『官報』第4133号「叙任及辞令」1897年4月16日。
- ^ 『官報』第4140号「叙任及辞令」1897年4月24日。
- ^ 『官報』第4273号「叙任及辞令」1897年9月28日。
- ^ 『官報』号外「辞令」1897年12月28日。
- ^ 『官報』第4379号「叙任及辞令」1898年2月9日。
- ^ 『官報』第4634号「叙任及辞令」1898年12月9日。
- ^ 『官報』第4981号「叙任及辞令」1900年2月12日。
- ^ 『官報』第5063号「叙任及辞令」1900年5月22日。
- ^ 『官報』第5064号「叙任及辞令」1900年5月23日。
- ^ 『官報』第5524号「叙任及辞令」1901年11月30日。
- ^ 『官報』第5627号「叙任及辞令」1902年4月11日。
- ^ 『官報』第5659号「叙任及辞令」1902年5月19日。
- ^ 『官報』第5700号「叙任及辞令」1902年7月5日。
- ^ 『官報』第5787号「叙任及辞令」1902年10月16日。
- ^ 『官報』第6031号「叙任及辞令」1903年8月8日。
- ^ 『官報』第6079号「叙任及辞令」1903年10月5日。
- ^ 『官報』第6113号「辞令」1903年11月16日。
- ^ 『官報』第6153号「叙任及辞令」1904年1月8日。
- ^ 『官報』第6468号「叙任及辞令」1905年1月24日。
- ^ 『官報』第6975号「辞令」1906年9月27日。
- ^ 『官報』第7057号「叙任及辞令」1907年1月10日。
- ^ 『官報』第7067号「叙任及辞令」1907年1月22日。
- ^ 『官報』第7354号「叙任及辞令」1908年1月4日。
- ^ 『官報』第7447号「叙任及辞令」1908年4月27日。
- ^ 『官報』第7448号「叙任及辞令」1908年4月28日。
- ^ a b 『官報』第7451号「叙任及辞令」1908年5月1日。
- ^ 『官報』第7783号「叙任及辞令」1909年6月7日。
- ^ 『官報』第8027号「叙任及辞令」1910年3月30日。
- ^ 『官報』第8031号「叙任及辞令」1910年4月4日。
- ^ 『官報』第8160号「叙任及辞令」1910年9月1日。
- ^ 『官報』第8383号「叙任及辞令」1911年6月3日。
- ^ 『官報』第509号「叙任及辞令」1914年4月13日。
- ^ 『官報』第510号「叙任及辞令」1914年4月14日。
- ^ 『官報』第526号「叙任及辞令」1914年5月2日。
- ^ 『官報』第592号「叙任及辞令」1914年7月21日。
- ^ 『官報』第977号「叙任及辞令」1915年11月2日。
- ^ 『官報』第1027号「宮廷録事 - 勅使差遣」1916年1月7日。
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第2533号「叙任及辞令」1891年12月8日。
- ^ 『官報』第3758号「叙任及辞令」1896年1月11日。
- ^ 『官報』第3918号「叙任及辞令」1896年7月21日。
- ^ 『官報』第5415号「叙任及辞令」1901年7月22日。
- ^ 『官報』第6926号「叙任及辞令」1906年7月31日。
- ^ 『官報』第8442号「叙任及辞令」1911年8月11日。
- ^ 『官報』第1023号「叙任及辞令」1915年12月28日。
- ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
- ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第4499号「叙任及辞令」1898年6月30日。
- ^ 『官報』第5696号「叙任及辞令」1902年7月1日。
- ^ 『官報』第6450号「叙任及辞令」1904年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7606号・付録「辞令」1908年10月31日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
- ^ 外務三等書記生斎藤桃太郎伊太利国勲章佩用ノ件(国立公文書館)
- ^ 『官報』第38号「賞勲叙任」1883年8月14日。
- ^ 『官報』第570号「賞勲叙任」1885年5月28日。
- ^ 『官報』第1403号「叙任及辞令」1888年3月7日。
- ^ a b c d e f 『官報』第2054号「叙任及辞令」1890年5月8日。
- ^ 『官報』第2758号、1892年9月5日。
- ^ 『官報』第3338号「叙任及辞令」1894年8月14日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
- ^ a b 『官報』第4263号、1897年9月15日。
- ^ 『官報』第5039号「叙任及辞令」1900年4月23日。
- ^ 『官報』第5207号「叙任及辞令」1900年11月8日。
- ^ 『官報』第5365号「叙任及辞令」1901年5月24日。
- ^ 『官報』第6433号「叙任及辞令」1904年12月8日。
- ^ a b c d e f 『官報』第6684号、1905年10月7日。
出典
[編集]- 『官報』
- 「宮内大臣正三位勲一等男爵波多野敬直外八十二名「斎藤桃太郎 履歴書」」 アジア歴史資料センター Ref.A10112795700
公職 | ||
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先代 中山孝麿 帝室会計審査局長 |
帝室会計審査局長官 1908年 - 1914年 局長 1905年 - 1908年 |
次代 松室致 |
先代 山尾庸三 別当 |
有栖川宮別当心得 1901年 - 1902年 別当 1898年 - 1901年 |
次代 伊藤勇吉 |