齋田萬蔵
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齋田 萬蔵(さいた まんぞう、1877年(明治10年)7月17日[1][2] - 1944年(昭和19年)7月10日[3])は、日本の地主[1][2][4][5][6]、政治家、東京府多額納税者[4][6][7]。
人物
[編集]東京府・齋田又一郎の長男[4][5][6]。1907年、家督を相続[1][6]。農業を営み[7][8][9]、地主である[1][4][5][6]。木村痩仙に画を学ぶ[10]。
世田谷町会議員、同町学務委員、渋谷劇場社長である[2]。宗教は真言宗[2]。趣味は植木、盆栽、絵画[2]。住所は東京市世田谷区代田[4][5]。
家族・親族
[編集]世田谷代田の齋田家は、中世には世田谷城主・吉良氏の家臣となり、1590年に吉良氏没落後、この地に帰農し、その開発の中心となった[10]。江戸後期以降は代田村の名主をつとめ、明治に入ると広大な茶園を営み、世田谷の茶業の発展にも尽力した[10]。齋田家の歴代は、書画文芸にも関心が高く、特に9代齋田雲岱(萬蔵、1801年 - 1858年)は画に秀で多くの博物図譜を遺した[10]。11代正脩(又一郎、1858年 - 1907年)は真田謙山に画を学んだ[10]。
- 父・又一郎[4][5](正脩、1858年 - 1907年)[10]
- 妻・千代(1889年 - ?、東京、池田松五郎の妹)[1][4]
- 長男・平太郎(1906年 - ?)[4][5]
- 男・隆(1910年 - ?)[4][5]
- 三女[4][5]
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『人事興信録 第10版 上』サ65頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月28日閲覧。
- ^ a b c d e 『大衆人事録 第14版 東京篇』443頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年12月15日閲覧。
- ^ 「(死亡広告)父斎田万蔵儀」『朝日新聞』1944年7月15日、3面。
- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第13版 上』サ65頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 上』サ65頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月27日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第12版 上』サ71頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月27日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』全国多額納税者 東京府 京都府6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月27日閲覧。
- ^ 『日本紳士録 第31版』東京サ之部396頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年12月15日閲覧。
- ^ 『日本紳士録 第18版』東京さ之部642頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月28日閲覧。
- ^ a b c d e f 世田谷ゆかりの画家たち。齋田記念館サイト。
参考文献
[編集]- 交詢社編『日本紳士録 第18版』交詢社、1913年。
- 交詢社編『日本紳士録 第31版』交詢社、1927年。
- 交詢社編『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』交詢社、1933年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。