黒部広生
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黒部 広生 | |
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生誕 |
1857年12月28日 日本 福岡県 |
死没 | 1913年4月22日(55歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1885 - 1909 |
最終階級 | 海軍造船総監 |
黒部 広生(くろべ ひろき、1857年12月28日(安政4年11月13日)- 1913年(大正2年)4月22日)は、日本の海軍軍人、戦艦三笠の造船総監。
略歴
[編集]- 安政4年(1857年)11月13日 生
- 明治18年(1885年)3月16日 海軍省御用掛/主船局勤務(機関課僚)
- 明治18年(1885年)4月9日 海軍省御用掛/主船局勤務(機関課僚)/東京大学御用掛
- 明治18年(1885年)11月5日 海軍省御用掛/主船局勤務(機関課僚)/東京大学御用掛/海軍兵学校勤務
- 明治19年(1886年)1月31日 海軍省御用掛/主船局勤務(機関課僚)/東京大学御用掛
- 明治19年(1886年)2月12日 海軍権少匠司
- 明治19年(1886年)2月13日 海軍省艦政局機関課僚/海軍兵学校勤務
- 明治19年(1886年)3月27日 海軍省艦政局機関課
- 明治19年(1886年)5月8日 海軍技師(四等) 海軍省艦政局機関課/海軍兵学校勤務
- 明治19年(1886年)6月19日 海軍省艦政局機関課
- 明治19年(1886年)11月9日 海軍大技士
- 明治19年(1886年)11月11日 海軍省艦政局機関課僚
- 明治20年(1887年)10月28日 連合王国出張被仰付
- 明治23年(1890年)9月17日 海軍少技監 英仏独国出張被仰付
- 明治23年(1890年)10月28日 造船監督官[1]
- 明治24年(1891年)6月4日 命帰朝
- 明治24年(1891年)8月16日 海軍省第二局第二課次長
- 明治26年(1893年)5月20日 横須賀鎮守府造船部造機科長
- 明治27年(1894年)12月5日 旅順口根拠地隊工作部長
- 明治29年(1896年)1月15日 横須賀鎮守府造船部造機科長
- 明治29年(1896年)4月1日 海軍造船少監
- 明治30年(1897年)3月24日 造船監督官
- 明治30年(1897年)3月25日 連合王国出張被仰付
- 明治30年(1897年)4月1日 海軍造船大監
- 明治34年(1901年)1月23日 命帰朝
- 明治34年(1901年)5月31日 横須賀海軍造船廠長/造機科長
- 明治34年(1901年)10月25日 横須賀海軍造船廠長
- 明治36年(1903年)11月10日 横須賀海軍工廠造機部長
- 明治37年(1904年)9月1日 海軍造船総監
- 明治41年(1908年)3月6日 海軍艦政本部出仕(四部)[2]
- 明治41年(1908年)8月28日 待命被仰付
- 明治42年(1909年)8月27日 予備役被仰付
- 大正2年(1913年)4月22日 歿 (55)墓所は東京都港区の光明寺。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正七位[3]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 従六位[4]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[5]
- 1903年(明治36年)4月20日 - 正五位[6]
- 1908年(明治41年)5月11日 - 従四位[7]
- 1909年(明治42年)9月20日 - 正四位[8]
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ 『官報』第2204号「叙任及辞令」1890年11月1日。
- ^ 『官報』第7406号「叙任及辞令」1908年3月7日。
- ^ 『官報』第929号「叙任」1886年8月5日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5937号「叙任及辞令」1903年4月21日。
- ^ 『官報』第7460号「叙任及辞令」1908年5月12日。
- ^ 『官報』第7874号「叙任及辞令」1909年9月21日。
- ^ 『官報』第4910号「叙任及辞令」1899年11月11日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
出典
[編集]『官報』