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黒木基康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒木 基康
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県
生年月日 1936年1月1日
没年月日 (2014-07-06) 2014年7月6日(78歳没)
身長
体重
179 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1960年
初出場 1960年4月2日
最終出場 1966年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

黒木 基康(くろき もとやす、1936年1月1日 - 2014年7月6日)は、宮崎県[1]出身の元プロ野球選手外野手)。実兄の弘重も元プロ野球選手[1]

経歴

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高鍋高では平原美夫監督の指導を受け、4番・一塁手としてプレーした。2年次の1953年には秋季九州大会に進むが、1回戦で九州学院に敗れた。3年次の1954年には夏の甲子園に出場し、同高は宮崎県勢として甲子園初出場を果たす[1]。本大会では1回戦で鶴見工に敗退し、黒木は高校卒業後に1955年日鉄二瀬へ入社。1年で退社して1956年日本大学へ進学し、東都大学リーグでは在学中に3度の優勝を経験した。4年次の1959年春季では専大の横山政之(日本石油)に次ぐリーグ2位の打率.448を記録し、同年の秋季ではエース宮田征典を擁し3年ぶりの優勝を飾る。リーグ通算では41試合出場、126打数36安打、打率.286、1本塁打で、ベストナイン(外野手)を1回受賞した。大学同期に高木時夫捕手会田豊彦三塁手、笹木士朗(日本鋼管)外野手らがいた。

大学卒業後の1960年大洋ホエールズへ入団し、1年目の同年は開幕戦となった4月2日中日戦(中日)で伊奈努から初本塁打を放つ[2]。プロ入り3打席目でのソロ本塁打であった[2][注 1]。黒木はその後、5番・右翼手として活躍した。チーム最多の22盗塁を記録し、球団史上初のリーグ優勝に貢献した。8月23日の中日戦で転倒し鎖骨を骨折したため黒木は日本シリーズに欠場したが、大洋は日本シリーズで大毎を破り日本一に輝いた[1]

岩本尭一軍打撃コーチの勧めによって1964年7月[4]ごろから一本足打法に取り組み[5][6]、打撃フォームが固まった[5]1965年には自己最多でリーグ3位の25本塁打を放ち、打率.283、61打点(リーグ8位)の好記録を残す。同年のオールスターゲームにも選出され、一本足打法の先輩[6]である巨人王貞治と共に週刊ベースボールの表紙を飾った[7]こともあった。

1966年には2年連続2桁本塁打となる10本塁打を記録したが、両膝の故障と、実業家の義父の急死により兄・弘重と共に事業を手伝うことを選び、同年に現役を引退した[1]

引退後は大阪市淀川区十三でレストランビルを経営し、高鍋高時代のチームメイトで投手であった杉尾貞邦が課長を務めた[8]。2014年7月6日、誤嚥性肺炎のため兵庫県神戸市東灘区の病院で死去した[9]。78歳没。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1960 大洋 100 365 340 31 79 15 3 9 127 37 22 7 5 2 17 2 1 75 13 .232 .271 .374 .644
1961 124 370 335 23 72 13 2 9 116 36 12 6 6 2 23 1 4 72 11 .215 .273 .346 .620
1962 87 181 172 11 39 10 1 4 63 12 4 2 3 0 6 0 0 31 1 .227 .253 .366 .619
1963 107 277 255 23 57 15 0 4 84 13 5 3 7 1 11 0 3 28 2 .224 .264 .329 .593
1964 96 206 185 28 50 12 1 2 70 19 4 3 4 1 16 0 0 21 5 .270 .328 .378 .707
1965 119 385 360 47 102 6 2 25 187 61 4 6 2 0 20 0 3 54 6 .283 .326 .519 .846
1966 97 243 223 24 46 3 0 10 79 22 2 3 2 1 14 0 3 39 6 .206 .263 .354 .617
通算:7年 730 2027 1870 187 445 74 9 63 726 200 53 30 29 7 107 3 14 320 44 .238 .284 .388 .673

記録

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初記録
その他の記録

背番号

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  • 23 (1960年 - 1966年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 黒木以降、球団の新人開幕戦本塁打は、2024年度会隆輝が2打席目で打つまで60年以上なかった[3]

出典

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  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、207ページ
  2. ^ a b クラシックSTATS鑑賞 黒木基康、全本塁打一覧|本塁打大全
  3. ^ DeNAドラ1・度会 衝撃12球団開幕1号!同点3ラン 球団64年ぶり新人開幕戦本塁打 場内どよめき」『スポニチ Sponichi Annex』2024年3月29日。2024年3月29日閲覧
  4. ^ 週刊ベースボールONLINE|野球コラム 8時半の男、巨人・宮田征典フル回転/週べ1965年7月5日号
  5. ^ a b 佐々木信也「球界インタビュー(第303回)完成した一本足 黒木基康」『週刊ベースボール』第20巻第25号、ベースボール・マガジン社、1965年6月21日、68-71頁。 
  6. ^ a b “アングル 黒木と一本足”. 読売新聞: p. 9. (1965年6月22日朝刊、第14版) 
  7. ^ 「表紙…巨人・王貞治、大洋・黒木基康」『週刊ベースボール』第20巻第30号、ベースボール・マガジン社、1965年7月26日、11頁。 
  8. ^ 宮崎の50回大会史 全国ただ一つの不出場県の汚名、消える
  9. ^ 『宮崎日日新聞』2014年7月8日付、29面。
  10. ^ 千葉功「中村晃、銀次らの「デビュー戦」を振り返る」『週刊ベースボールONLINE』2015年4月5日。2024年3月30日閲覧

関連項目

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外部リンク

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