黎玄宗
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玄宗 黎維䄔 | |
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後黎朝 | |
第21代皇帝 | |
王朝 | 後黎朝 |
在位期間 | 1662年11月2日 - 1671年11月16日 |
姓・諱 | 黎維䄔(黎維禧) |
諡号 | 豁達睿聡剛毅中正温柔和楽欽明文思允恭克譲穆皇帝 |
廟号 | 玄宗 |
生年 | 盛徳2年(1654年) |
没年 |
景治9年10月15日 (1671年11月16日) |
父 | 神宗 |
母 | 端純皇太后 |
后妃 | 鄭氏玉𣖮 |
陵墓 | 果盛陵 |
元号 | 景治 : 1663年 - 1671年 |
黎玄宗(れいげんそう、レ・フエントン、ベトナム語:Lê Huyền Tông / 黎玄宗)は、後黎朝大越中興期の第21代皇帝。名は黎 維䄔(レ・ズイ・ヴー、ベトナム語:Lê Duy Vũ / 黎維䄔)[1][2]、または黎 維禧(レ・ズイ・ヒ、ベトナム語:Lê Duy Hi / 黎維禧)[3]とも。
生涯
[編集]神宗の次男。万慶元年9月22日(1662年11月2日)に父帝が崩じると9歳で即位した。玄宗の治世は西定王鄭柞が国政の全権を握り[4]、玄宗は飾り物の皇帝であった。キリスト教を禁じ、景治2年(1664年)5月に燕郡公范公著に命じて新たな度量衡を制定させた[1]。景治5年(1667年)には宜国公鄭根らを派兵して高平の莫敬宇を討伐させ[3]、莫敬宇を清の雲南鎮安州に追いやった。
景治9年10月15日(1671年11月16日)に崩御[1]。弟の黎維禬が即位した(嘉宗)[2]。
出典
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