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黄驥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

黄 驥(こう き、生没年不詳)は、明代官僚は致遠。本貫全州清湘県

生涯

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1396年洪武29年)、郷試に及第して、沙県教諭となった。永楽年間、礼科給事中に抜擢され、三度にわたって西域に対する使節をつとめた。1424年(永楽22年)、黄驥は西域からの朝貢使節の随従を制限し、貢献する物産も実需のある西域産の馬のみを受け取って、硇砂梧桐岩塩の類を受け取らないよう求める上疏をおこなった。洪熙帝はその文章を礼部尚書の呂震に示し、呂震を叱責した。後に黄驥は右通政に転じた。1427年宣徳2年)、李琦や羅汝敬とともにベトナム後陳朝に派遣され、陳暠を安南国王に封じた。1428年(宣徳3年)、帰国した。ほどなく死去した。著書に『黄門奏草』があった。

参考文献

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  • 明史』巻164 列伝第52
  • 金鉷『広西通志』巻77