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黄乙秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黄乙秀
個人情報
国籍日本→朝鮮民主主義人民共和国
生誕日本統治時代の朝鮮江原道鉄原郡
スポーツ
競技ボクシング
黄乙秀
各種表記
ハングル 황을수
漢字 黃乙秀
発音: ファン・ウルス
ローマ字 Hwang Eul-Su
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黄 乙秀(おう おつひで[1]、ファン・ウルス、生没年不詳)は、日本植民地時代の朝鮮出身のボクサー

明治大学在学中[2][3]1932年ロサンゼルスオリンピック日本代表として出場した[4][5]

このロサンゼルスオリンピック日本代表団には陸上競技選手の金恩培権泰夏も参加しており[6][2]、黄乙秀は彼らと並び朝鮮民族最初のオリンピック選手の一人となった。大会では男子ライト級で出場したが[4]、1回戦敗退となった[4][7]

1940年1月のボクシング日比対抗戦では、日本代表チームの監督としてフィリピンに遠征した[2](なお、この日本代表チームは、監督・選手・コーチ全員が朝鮮人選手である[2])。

解放後は南側で暮らしていたが、朝鮮戦争が勃発すると越北[8]。北朝鮮ボクシング界の指導者となった[8]。1963年時点で朝鮮民主主義人民共和国で功勲体育人の称号を受けており、朝鮮オリンピック委員会委員として活動していた[9]

脚注

[編集]
  1. ^ JOC”. 日本オリンピック委員会. 2022年2月19日閲覧。
  2. ^ a b c d 石丸次郎 (2015年9月11日). “<特集戦後70年>日本のリング席巻した植民地朝鮮のボクサー”. アジアプレス. p. 1. 2019年10月9日閲覧。
  3. ^ 中澤篤史「オリンピック日本代表選手団における学生選手に関する資料検討:1912年ストックホルム大会から1996年アトランタ大会までを対象に」(pdf)『一橋大学スポーツ研究』第29号、2010年、2019年10月9日閲覧 
  4. ^ a b c Otsu Shoko Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月9日閲覧。
  5. ^ 송용창 기자 (2010年7月26日). “엄복동, 자전거 경기서 매번 日꺾어”. 한국일보. オリジナルの2011年1月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110126020426/http://news.hankooki.com/lpage/culture/201007/h2010072614310086330.htm# 2019年10月9日閲覧。 
  6. ^ 第20章 朝鮮/韓国 スポーツに託された解放と統一の希望”. 一色出版. 2019年10月9日閲覧。
  7. ^ 金誠「植民地朝鮮における朝鮮神宮競技大会に関する研究」(pdf)『スポーツ史研究』第26号、2013年、47頁、2019年10月9日閲覧 
  8. ^ a b 石丸次郎 (2015年9月11日). “<特集戦後70年>日本のリング席巻した植民地朝鮮のボクサー”. アジアプレス. p. 2. 2019年10月9日閲覧。
  9. ^ “올림픽陸上三個種目에 金메달 탈 自信있다고”. 동아일보. (1963年12月28日). http://newslibrary.naver.com/viewer/index.nhn?articleId=1963122800209208008&editNo=2&printCount=1&publishDate=1963-12-28&officeId=00020&pageNo=8&printNo=12977&publishType=00020