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麻田剛立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
麻田 剛立
(あさだ ごうりゅう)
生誕 1734年3月10日
日本の旗 日本 豊後国杵築藩
死没 (1799-06-25) 1799年6月25日(65歳没)
日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
研究分野 天文学
主な業績 1763年10月7日日食を予言
ケプラーの第3法則と同じ法則を独自に発見
補足
注:テンプレートの生没年は太陽暦で表記
プロジェクト:人物伝
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麻田 剛立(あさだ ごうりゅう、享保19年2月6日1734年3月10日) - 寛政11年5月22日1799年6月25日))は、江戸時代日本天文学者[1]である。

人物・生涯

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豊後国杵築藩南台西(現在の大分県杵築市)出身[1][2][3]。元々は綾部(あやべ)姓であったという。儒学者綾部安正(絅斎)の四男[1]。幼名は庄吉良で、名は妥彰(やすあき)[1]。初め璋菴(しょうあん、表記は「正庵」とも)、後に剛立と号した[1]

幼少期から天体に興味を持ち、二十歳くらいから本格的な天体観測を行う[2]。『傷寒論』などを読み、独学で天文学医学を学んだ。

ケプラーの第3法則を独自に発見したとされ、その内容は『五星距地之奇法』に記されている[4]。既にケプラーの(第1・第2)法則については漢籍によって日本にも伝来している時代であり、後述の通りケプラーの法則を使っての研究もしていることから、この麻田の独創については疑問視する意見もある。ただ、麻田は惑星軌道と考えて「惑星の公転周期2乗が軌道の半径の3乗に比例する」としており、つまりこの時点でケプラーの第1法則を知らなかったため、事実誤認が含まれているとはいえ、麻田の独創性については間違いは無い。

宝暦13年(1763年)に、ケプラーの法則を用いて、官暦にはない同年9月1日(旧暦)の日食を予言し的中[2]。この日食は当時使用されていた宝暦暦に記されていなかったこともあり、麻田の名声を高めた。

明和8年(1771年)頃に豊後を離れて(この時に脱藩したため、追っ手の目を眩まそうと改名したが、結果的には何も御咎めも無かった)大坂に行き、そこで医師を生業としながら天文学の研究を続けた[1]。『崇禎暦書』を基盤に研究し、望遠鏡反射鏡などの観測装置を改良し、理論を実測で確認、そして家暦である『時中法』[1]を設けるなど、その手法は近代的であった。

オランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記す。安永7年(1778年)8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は所在不明とされていたが、鹿毛敏夫が『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』を書くにあたり資料を収集した際、現所蔵者と現物を発見した。

弟子に高橋至時[1]山片蟠桃間重富[1]らがおり、高橋と間は寛政暦の制定に携わっている。また中井竹山中井履軒兄弟・三浦梅園とも交流した。

大正5年(1916年)、従四位を追贈された[5]

クレーターであるアサダは、麻田剛立の名に由来する。

麻田剛立の石碑

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、13-14頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  2. ^ a b c 麻田 剛立(あさだ ごうりゅう) 杵築市、2020年2月13日閲覧。
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 24頁。
  4. ^ 『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』。
  5. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.41

参考文献

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- 同著者が改題して角川文庫化した『月に名前を残した男 江戸の天文学者 麻田剛立』(2012年刊行)がある。

*鹿毛敏夫著 『近世天文塾「先事館」と麻田剛立』吉川弘文館ISBN 9784642043595、2024年2月刊行

外部リンク

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