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鹿島俊策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かしま しゅんさく
鹿島 俊策
本名 恵良 俊二郎(えら しゅんじろう)
別名義 鹿島 陽之助(かしま ようのすけ)
鹿島 俊作
生年月日 (1902-09-25) 1902年9月25日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋
職業 俳優
ジャンル 劇映画現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1925年 - 1937年
主な作品
驀進
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鹿島 俊策(かしま しゅんさく、1902年9月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名恵良 俊二郎(えら しゅんじろう)、旧芸名鹿島 陽之助(かしま ようのすけ)[1][2]。一部鹿島 俊作という表記もみられる[3]

人物・来歴

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1902年明治35年)9月25日東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる[1][2]

旧制・大分県宇佐中学校(現在の大分県立宇佐高等学校)を卒業し、東京府荏原郡羽田町鈴木新田(現在の東京都大田区羽田空港)に相羽有が開いた日本飛行学校に進学、航空機の操縦を学ぶ。同校を卒業した後は、欧州航路の船員を務めたこともあったという[1][2]自動車オートバイの運転、ダンスも得意であるという人物である[1][2]牧野省三日活から独立して設立した牧野教育映画製作所に1923年(大正12年)に入社、「鹿島 陽之助」として脇役出演を開始する[1]。1923年(大正12年)6月1日、マキノ映画製作所が設立されるとそのまま所属し、1924年(大正13年)7月、マキノ映画製作所が東亜キネマに吸収されると、東亜の甲陽撮影所に異動し、役がつきはじめる[3][4]。1925年(大正14年)6月、牧野省三がマキノ・プロダクションを設立した後、マキノに復帰する[1][3][4]。1926年(大正15年)8月6日に公開された高見貞衛監督のオートバイ映画『驀進』で主演に抜擢、得意のオートバイ操縦を披露する[1][3][4]。同年10月22日に公開されたマキノ正博の監督デビュー作『青い眼の人形』にも青年英謙二役で出演している[3][4]。翌1927年(昭和2年)2月9日に公開された鈴木謙作監督の『獣人』にも主演したが、同年8月、同社を退社した[1][3][4]

1928年(昭和3年)3月、河合徳三郎が設立したばかりの河合プロダクション(のちの河合映画製作社)に移籍、同社の町屋撮影所で製作され、同年3月9日に公開された悪麗之助監督の『ふくろう組』に出演した[1][3][4]。1931年(昭和6年)には同社を離れ、東京シネマ商会が製作、同年2月11日公開、小沢得二細山喜代松が共同監督したサウンド版大空軍』に主演、同年6月には、松竹蒲田撮影所に移籍、「鹿島 俊策」と改名した[1][3][4]。翌1932年(昭和7年)初頭には準幹部待遇となった[1]。しかしながら主演作はなく、トーキー作品もつくられはじめているにもかかわらず、サイレント映画への出演が続き、1934年(昭和9年)7月26日に公開された宗本英男監督の『血染の制服』に出演した後に退社している[3][4]。松竹蒲田でサイレントばかりに反発して独立、トーキー製作のために重宗務が設立した東京発声映画製作所に、鹿島も1936年(昭和11年)に移籍し、数本に出演したが、満35歳となった1937年(昭和12年)11月17日公開、豊田四郎監督の『若い人』に出演した以降、出演記録が途絶えた[3][4]。時代は第二次世界大戦に突入、その後の消息は不明とされていた[1]が、『讀賣新聞』1957年(昭和32年)10月1日付より、晩年のマキノ光雄(1909年 - 1957年)が連載したコラム「スターとともに」において、同記事執筆の時点で既に故人であるという旨が記されている[8]没年不詳

フィルモグラフィ

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特筆以外すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

東亜キネマ甲陽撮影所

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すべて製作は「東亜キネマ甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である。「鹿島陽之助」名義である。

マキノプロダクション御室撮影所

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すべて製作・配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である。「鹿島陽之助」名義である。

河合映画

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すべて製作・配給は「河合映画製作社」、すべてサイレント映画である。「鹿島陽之助」名義である。

東京シネマ商会

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すべて製作・配給は「東京シネマ商会」である。「鹿島陽之助」名義である。

松竹蒲田撮影所

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すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画である。「鹿島俊策」名義である。

東京発声映画製作所

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すべて製作は「東京発声映画製作所」、配給は「日活」あるいは「東宝映画」、すべてトーキーである。「鹿島俊策」名義である。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m キネマ旬報社[1979], p.142.
  2. ^ a b c d e 鹿島俊策jlogos.com, エア、2013年1月30日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 鹿島俊策鹿島陽之助日本映画データベース、2013年1月30日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 鹿島俊策鹿島俊作鹿島陽之助、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月30日閲覧。
  5. ^ 鹿島俊策日本映画製作者連盟、2013年1月30日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h 鹿島俊策東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月30日閲覧。
  7. ^ a b c 鹿島俊策、日活データベース、日活、2013年1月30日閲覧。
  8. ^ 『讀賣新聞』1957年10月1日付。
  9. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年1月30日閲覧。

参考文献

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  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
  • 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133

関連項目

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外部リンク

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