鹿園実博
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鹿園実博 しかぞの さねひろ | |
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生年月日 | 1866年7月2日 |
出生地 |
日本 山城国京都 (現・京都府京都市) |
没年月日 | 1922年2月27日(55歳没) |
出身校 | 陸軍予備士官学校修了 |
所属政党 | 研究会 |
称号 | 従四位 |
親族 | 兄・戸田忠義(貴族院議員) |
在任期間 | 1893年7月12日 - 1897年7月9日 |
鹿園 実博(實博、しかぞの さねひろ、1866年7月2日〈慶応2年5月20日[1]〉 - 1922年〈大正11年〉2月27日[1][2][3])は、明治・大正期の政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧名・亥五郎[4]。位階は従四位[3]。
経歴
[編集]山城国京都で下野高徳藩主戸田忠至[注釈 1]の嫡男戸田忠綱(のち藩主を継ぐ)の二男として生まれる[1][4]。1873年(明治6年)6月3日、奈良華族鹿園家当主・空晁(三条実起七男)の養子となり[4][5][6]、養父の死去に伴い、1874年(明治7年)6月7日に家督を相続する[1][4]。1875年(明治8年)3月28日、華族に列し[1][5][6]、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[1][4][6][7]。
陸軍予備士官学校を修了する[2]。1893年(明治26年)7月12日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[8][9]、1897年(明治30年)7月9日まで1期在任した[2]。会派は研究会に所属した[10]。
親族
[編集]- 実父:戸田忠綱
- 養父:空晁(三条実起七男で、幼くして興福寺に入り、同寺喜多院住職となったが、1868年に勅命により復飾し、姓を鹿園とする[11])
- 養子:博仲(男爵、林博太郎二男[1]。妹の夫・直治(南部利克六男)を養子に鹿園家を継承。その子に鹿園直建がいる)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、703頁。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』73頁。
- ^ a b 『議会制度七十年史 第1 44コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e 『大日本華族大鑑』79頁。
- ^ a b 『鹿園家譜』
- ^ a b c 『人事興信録』6版、し23頁。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、5頁。
- ^ 『官報』第3015号、明治26年7月18日。
- ^ 『研究会所属貴族院議員録 : 創立より解散まで 70コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『現代華族譜要』維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929年、316頁。
参考文献
[編集]- 『鹿園家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 人事興信所編『人事興信録』6版、1921年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 鹿園家初代 1884年 - 1922年 |
次代 鹿園博仲 |