鷹司輔信
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛保元年10月3日(1741年11月10日) |
別名 | 号:有隣軒 |
主君 | 霊元天皇→東山天皇→中御門天皇→桜町天皇 |
氏族 | 鷹司家 |
父母 | 父:鷹司房輔、母:家女房 |
兄弟 | 兼熙、西園寺実輔、輔信、房演、信覚、日顕、隆尊、一条兼香 |
妻 |
室:花山院定誠娘 室:久我通誠娘 |
子 | 八重姫、男子、小石君、日慈、八百君 |
鷹司 輔信(たかつかさ すけのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家・茶人。号は有隣軒。
来歴
[編集]関白・鷹司房輔の三男[1]として生まれる。母は家女房。壮年から若干の眼疾を患っていたと言われており、そのためか生涯無位無官ですごした。茶を慈胤法親王に学んだ。自筆の和歌懐紙をはじめ、自作の茶碗や茶杓が複数現存するほか、釜などの好みの茶道具なども残っている。晩年は剃髪し洛東頂妙寺内の蓮乗院に住した。[2]
寛保元年(1741年)10月3日に死去。享年は74[3]など諸説ある。特にほとんどの史料で享年62歳と記されているが、逆算すると生年は延宝8年(1680年)。だが長女八重姫の生年が元禄2年(1689年)なので享年62歳という記述は誤記の可能性が高い。