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鷲沢与四二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鷲沢与四二

鷲沢 与四二(わしざわ よしじ、1883年明治16年)8月14日[1] - 1956年昭和31年)10月1日[2])は、衆議院議員立憲民政党国民同盟)。ジャーナリスト実業家

経歴

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長野県小県郡上田町(現在の上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て[3]1908年(明治41年)、慶應義塾大学政治科を卒業[4]。慶大在学中は野球部監督を務めた[5]。毎日電報社記者、慶應義塾大学講師を務めた後、時事新報社北京特派員として中国に渡る[6]北京で英字新聞『ノース・チャイナ・スタンダード』を創刊したほか、北京新聞社社長、北京燕塵社社長、時事新報社顧問を務めた[6]。その後、雑誌『ベースボール』を発行し、社長を務めた[5]

1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。

また農家救済策としてアンゴラ兎毛業を提唱し、東京アンゴラ株式会社の社長に就任した。その他、東京繊維工業株式会社社長、東京化学産業株式会社社長、東亜繊維株式会社社長、国策新報社社長[6]、東亜商事株式会社社長、日本兎業株式会社監査役[4]などを務めた。

戦後は神奈川県公安委員を務めた[7]

著書

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  • 『支那開発の根本方策』(生活社、1937年)
  • 『アンゴラ飼育と現金収入』(国策新報社、1939年)

脚注

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  1. ^ 衆議院『第六十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1932年、18頁。
  2. ^ 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
  3. ^ 「長野県百科事典」p.856信濃毎日新聞社、1974年
  4. ^ a b 『人事興信録』
  5. ^ a b 『日本スポーツ人名辞典』
  6. ^ a b c 『衆議院要覧』
  7. ^ 『1957年版朝日年鑑 人名・会社・団体要覧』朝日新聞社、1956年。

参考文献

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  • 日本スポーツ協会編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年。 
  • 『第一回乃至第二十回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1940年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。