興国寺 (和歌山県由良町)
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(鷲峰山興国寺から転送)
興国寺 | |
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興国寺本堂 | |
所在地 | 和歌山県日高郡由良町門前801 |
位置 | 北緯33度58分37.3秒 東経135度7分30.9秒 / 北緯33.977028度 東経135.125250度座標: 北緯33度58分37.3秒 東経135度7分30.9秒 / 北緯33.977028度 東経135.125250度 |
山号 | 鷲峰山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 安貞元年(1227年) |
開山 | 心地覚心(法燈国師) |
開基 | 葛山景倫(願性) |
別称 | 西方寺 |
札所等 | 紀伊之国十三仏霊場第8番 |
文化財 | 木造法燈国師坐像、絹本著色法燈国師像、紙本墨書誓度院規式(重要文化財) |
法人番号 | 1170005004490 |
興国寺(こうこくじ)は、和歌山県日高郡由良町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は鷲峰山(しゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。
歴史
[編集]安貞元年(1227年)、高野山金剛三昧院の願生(俗名・葛山景倫)が主君であった源実朝の菩提を弔うために創建したもので、創建時は真言宗寺院で西方寺と称していた。葛山景倫は承久元年(1219年)、実朝の暗殺を機に出家。実朝の生母・北条政子は願生の忠誠心に報い、願生を西方寺のある由良荘の地頭に任命した[1][2]。
願生は親交のあった心地覚心(法燈国師)が宋から帰国すると、正嘉2年(1258年)に西方寺の住職に迎えて開山とした。その後、後醍醐天皇より寺号の興国寺を賜ったという。覚心は、普化尺八を奏する居士4名を宋から連れ帰り、興国寺に住まわせたので、以後当寺は普化尺八の本山的な役割を持つようになった。その弟子の一人、虚竹禅師(寄竹)が尺八の元祖といわれている[3]。
また、熊野・伊勢地方への布教を積極的に行った。宋で習得した金山寺味噌の製法が弟子から人々に伝わり、やがて醤油が誕生するきっかけとなった[4]。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉の紀州征伐によって伽藍の大部分を焼失したが、慶長6年(1601年)に紀州藩主・浅野幸長によって再興された[3]。
昭和31年(1956年)、臨済宗妙心寺派から独立し臨済宗法燈派大本山になったが、昭和61年(1986年)に妙心寺派に復帰した。
地元では、由良開山(ゆら・かいさん)と呼ばれ、親しまれている。
伽藍
[編集]- 本堂(1797年再建[5])
- 天狗堂
- 大門
- 山門
- 鐘楼
- 尺八道場
- 禅堂
- 位牌堂
- 開山堂
- 書院
- 庫裏
文化財
[編集]重要文化財(国指定)
[編集]天然記念物(国指定)
[編集]札所
[編集]- 紀伊之国十三仏霊場 第8番
交通
[編集]周辺情報
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 下中邦彦編「和歌山県の地名」『日本歴史地名大系』第31巻、平凡社、1983年、828頁、ISBN 4582910157、NAID 10003517251、全国書誌番号:22868883。
- 谷口耕一「延慶本平家物語における維盛粉河詣をめぐる諸問題 : 湯浅権守宗重とその周辺(三)」『千葉大学社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書』第103巻、千葉大学大学院社会文化科学研究科、12-40頁、ISSN 1881-7165、NAID 120007086309。