鶴亀城
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鶴亀城 (長崎県) | |
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別名 | 神代城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | あり |
築城主 | 神代貴益 |
築城年 | 南北朝時代? |
主な城主 | 神代氏 |
廃城年 | 1615年(慶長20年) |
遺構 | 曲輪 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯32度52分12.7秒 東経130度15分57.8秒 / 北緯32.870194度 東経130.266056度 |
地図 |
鶴亀城(つるかめじょう)は、長崎県雲仙市国見町にあった日本の城(山城)。東西350メートル×南北450メートルの大きな山城跡である。別名神代城・蓑鶴城。
概要
[編集]現在、本丸跡は神代神社・稲荷神社となっており、二の丸、三の丸、大手門跡は田畑が広がっている。鶴亀城の支城として西に尻無城、長浜城などがあり、東に切通砦、大坪城、浅井城があった。大手門は北側にある海辺に存在し、高さ25メートルの天守があったとされる。
歴史
[編集]南北朝時代、神代貴益により築城されたとされる。以後、戦国時代末期まで神代氏の居城であった。1584年(天正12年)の沖田畷の戦いのときには龍造寺軍の本陣でもあった。その折、有馬晴信は攻撃するも攻略不可能と判断し、それ以前以後も戦闘による陥落経験のないとされる難攻不落の城であった(諸説あり)。
豊臣秀吉の天下統一後の九州国分では、鶴亀城を含む神代地区は佐賀鍋島氏の支藩に割り当てられた。江戸時代初期、鶴亀城の整備が行われたが、一国一城令により取り壊され、廃城となる。
道帳の記述
[編集]慶安2年(1649年)に成立した肥前国の道帳「神代之古城」条には次のことが記されている。
- 山城である。
- 高さ(城下よりの比高)は9間(1間は、6.5尺とすれば約2メートル)あるいは6~7間の間である。
- 本丸の規模は、南北45間、東西27間である。
- 二ノ丸の規模は、南北70間、東西104間である。
- 城の四方、および本丸・二ノ丸の間に空堀跡がある。
- 本丸に1ヵ所、二ノ丸に3ヵ所の井戸がある。
- 城の四方は竹林で、城内側は畑として利用されている。
- 惣構えを構成する防禦施設等はない。
- 城の北は遠干潟で、船を繋留することができない。
- 城より高い山は周辺にはない。また、温泉嶽(雲仙岳)より2里以上離れている。
- 城の東に小川がある。
- 東・南・西が平地で、東・南が浅田、西は若干深田である。
参考文献
[編集]- 『肥前一国道則帳』(武雄市図書館・歴史資料館、2013年)。…肥前国の道帳。
- 『国見町郷土史』(国見町、1984年)。…「小路」の造成過程について記す。
- 『雲仙市文化財調査報告書』第9集 鶴亀城(神代城)跡(長崎県雲仙市教育委員会、2010年)。
- 『重要文化財 旧鍋島家住宅長屋門ほか4棟保存修理工事報告書』(雲仙市、2013年)。…「神代小路の沿革」を記す。また、「神代村絵図」(文政5年、長崎県立図書館蔵)ほかの写真を掲載。
- 『国見町神代小路 美しいまちづくり基本計画』(国見町教育委員会、2005年)。…本丸・二ノ丸・神代小路付近の筆界らしきものを図示する。
- 『神代地区史跡めぐりガイドブック』(神代古文書勉強会、2009年)。…周辺の史跡・周囲の旧景観を窺える。
- 『神代鍋島家年譜』(神代を史ろう会、2009年)。…「神代村絵図」(文政5年)の写真を掲載。
- 『高揚史譚』上(大江三千司、1921年)。…城郭古図(近世初頭?)を掲載。
- 永松義博・國分 亮「雲仙市国見町神代における歴史的池泉庭園の特性と経年変化」『南九州大学研報』43A号(南九州大学、2013年)。…城郭古図(近世初頭?)を掲載。
- 木島孝之『城郭の縄張り構造と大名権力』(九州大学出版会、2001年)。…「神代城」の項目を設けるほか、本丸の実測縄張り図を掲載。
- 木島孝之「神代城と神代「小路」」『国見町神代小路伝統的建造物群保存対策調査報告書』(長崎県国見町教育委員会、2003年)。
- 『長崎県文化財調査報告書』第207集 長崎県中近世城館跡分布調査報告書Ⅱ 詳説編(長崎県教育委員会、2011年)。…二ノ丸についても詳細な縄張り図を掲載する。
- 「神代城跡」『長崎県の地名』(平凡社、2001年)。城郭の略史を記述。
- 『神代小路』(A4観音四折リーフレット、長崎県国見町教育委員会、2005年)。…「第九大区西村神代名第壱号字城上」図および、「第九大区西村神代名第弐号字小路」図を掲載。
- 「高来郡神代郷図」(嘉永5年、鍋島報效会蔵)。…雲仙市歴史資料館国見展示館の展示にあり。
- 「神代城古図」(宝永4年写)。…雲仙市歴史資料館国見展示館の展示にあり。
- 「庶務課史誌挂事務簿 南高来郡村誌」(長崎歴史文化博物館)…「蓑鶴城」の別名を掲載。