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鶏知重砲兵連隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鶏知重砲兵連隊(けちじゅうほうへいれんたい)は、1936年から1941年まで、日本の長崎県対馬にあった沿岸砲兵隊である。前身は鶏知重砲兵大隊対馬要塞唯一の戦闘部隊で、対馬海峡を通航する艦船・航空機に対する防衛を任務とした。通称号は西部第77部隊対馬要塞重砲兵連隊に改組してなくなった。

歴史

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改称による編成

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1920年から1936年まで、対馬要塞には唯一の戦闘部隊として鶏知重砲兵大隊が置かれていた。1936年6月1日に、軍令陸第4号により、この大隊が改称して鶏知重砲兵連隊が発足した[1]。発足時の所属部隊は重砲兵中隊2個だけで、その後も特に増強されなかった。

対馬要塞には対馬要塞司令部があり、平時の砲台管理は司令部が行っていた。重砲兵連隊は訓練のために借り受ける関係であった[2]

日中戦争での警急戦備

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1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件により日中戦争が始まると、連隊は警急戦備をとるよう命じられ、対馬要塞司令部の指揮下で防空監視の体勢をとった。8月21日に厳原防空監視隊本部に65人の将兵を、比田勝佐須奈・佐賀・佐保・小船越・鶏知・鹿見・小茂田・浅藻の防空監視哨に兵士を2人ずつ配置した[3]。監視哨の配置はその後変更があった。この監視隊ははじめ重砲兵連隊の将兵からなっていたが、翌1938年(昭和12年)には8人を本部に残して引き上げることになり、12月1日に長崎県に業務を移管した[4]

また、1937年(昭和12年)8月26日に高射砲2隊、照空隊3隊、計116人の防空部隊を編成して送り出し、下関要塞司令官の隷下に入れた[5]。この部隊は、12月から壱岐要塞防空部隊の訓練にあたった[5]。期間中には派遣者と帰還者の交替が何度かあり、翌1938年(昭和13年)12月11日に帰還を命じられ、12日に109人で戻ってきた[4]

警急戦備は1939年(昭和14年)1月25日に解除された[6]

1939年(昭和14年)11月10日に、連隊には436人の将兵が属していた[7]

1940年(昭和15年)2月6日に西部防空管区で8日から防空を行うよう命令があったが、3月31日に解除された[8]

この年8月に、連隊の通称号が西部第77部隊と定められた[9]

関特演にともなう動員と改称

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1941年(昭和16年)7月6日に弾薬調整を命じられた連隊は、7日に各砲台に砲台長と兵を向かわせた[10]。7月9日に、13日を動員開始日とする動員令が発せられた[10]。翌10日から続々と臨時召集者が集まり始め、12日には各地に配備された。応召者を入れて戦時編制に転換した連隊は、7月21日に動員を完結し、対馬要塞重砲兵連隊となった[11][12]。この動員はソビエト連邦への攻撃を狙った関東軍特種演習(関特演)にともなうもので、対ソ戦を見送った後も解除されず、12月の対米開戦に至った。

年表

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  • 1936年(昭和11年)6月1日 鶏知重砲兵大隊が鶏知重砲兵連隊に改称[1]
  • 1937年(昭和12年)1月7日 八八式七糎野戦高射砲2門を大阪兵器支廠に返納。前年に「愛国」高射砲を受領したため、替える
    •     8月20日 日中戦争の勃発により防空のための警急戦備が発令[3]
    •     8月21日 警急戦備に入る[3]
    •     8月26日 厳原防空監視隊本部に3人増員[14]。116人の防空部隊を編成[5]
    •     8月27日 防空部隊が出発し下関要塞司令官の隷下に入る[5]
    •     9月8日 小船越と鹿見の監視哨を廃止。浅藻の監視哨を豆酸に変更。比田勝と佐須奈の監視哨を1人に減らす[14]
    •     10月8日 宮沢文雄少佐が防空部隊の長となり、部隊は宮沢部隊と称する[5]
    •     10月25日 宮沢部隊が60日間、壱岐要塞防空部隊となる補充兵の訓練にあたる[5]
  • 1938年(昭和13年)2月17日 供用中の三十年式歩兵銃を返納し、訓練用銃剣に替える[15]
    •     4月21日 防空監視隊からの引き上げが決まる[4]
    •     12月1日 防空監視隊の業務を長崎県に移管[4]
    •     12月11日 防空部隊の撤退を命じられる[4]
    •     12月12日 防空部隊109人が帰還[4]
  • 1939年(昭和14年)1月25日 警急戦備解除[6]
    •     8月 通称号を西部第77部隊とする[9]
  • 1940年(昭和15年)2月6日 8日から防空を開始するよう下令[8]
    •     2月8日 防空開始[8]
    •     3月31日 防空解除[8]
  • 1941年(昭和16年)7月6日 動員命令が下る[10]

部隊構成

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  • 連隊本部
    • 第1中隊
    • 第2中隊

歴代連隊長

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脚注

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  1. ^ a b c 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第38年 昭和11年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111012600 、97頁。
  2. ^ 『密大日記』第14冊(昭和13年)、「45式15糎加農借用の件」 アジア歴史資料センター Ref.C01004539600 。
  3. ^ a b c 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第39年 昭和12年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111012700 、101頁、
  4. ^ a b c d e f 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第40年 昭和13年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111012800 、111頁。
  5. ^ a b c d e f 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第39年 昭和12年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111012700 、103頁、リンク先の3コマめ。
  6. ^ a b c d 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第41年 昭和14年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111012900 、119頁。
  7. ^ 『陸支受大日記』第72号(昭和14年)、「戦時旬報進達の件」 アジア歴史資料センター Ref.C04121614500 中の「壱岐要塞人馬現員表」。リンク先の40コマめ。
  8. ^ a b c d e 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第42年 昭和15年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013000 、123頁。
  9. ^ a b 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第42年 昭和15年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013000 、124頁。リンク先の2コマめ。
  10. ^ a b c 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第43年 昭和16年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013100 、128頁。
  11. ^ 正確な改称日は不明。
  12. ^ a b 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第43年 昭和16年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013100 、130頁。リンク先の3コマめ。
  13. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第38年 昭和11年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111012600 、98頁。リンク先の2コマめ。
  14. ^ a b 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第39年 昭和12年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111012700 、102頁、リンク先の2コマめ。
  15. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第40年 昭和13年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111012800 、114頁、リンク先の4コマめ。
  16. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第37年 昭和10年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111012500 、93頁。
  17. ^ 『鶏知重砲兵連隊歴史』。「創立第42年 昭和15年」 アジア歴史資料センター Ref.C14111013000 、125頁。リンク先の3コマめ。

参考文献

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関連項目

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