鯰江城
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鯰江城 (滋賀県) | |
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現在の鯰江城址。土塁の跡が見える。 | |
城郭構造 | 平山城 |
主な改修者 | 鯰江貞景 |
主な城主 | 鯰江貞景 |
廃城年 | 1573年 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
位置 | 北緯35度06分31.8秒 東経136度14分31.7秒 / 北緯35.108833度 東経136.242139度座標: 北緯35度06分31.8秒 東経136度14分31.7秒 / 北緯35.108833度 東経136.242139度 |
地図 |
鯰江城(なまずえじょう)は、近江国愛知郡鯰江荘(現・滋賀県東近江市鯰江町)にあった日本の城(平山城)。同地を本拠とした鯰江氏の居城であった。
概略
[編集]室町時代、鯰江氏は六角氏に属して勢力を伸ばしていたが、永禄11年(1568年)に観音寺城の戦いで六角氏の居城である観音寺城が落城したため、城主の鯰江貞景は甲賀郡に逃げていた六角義賢・義治父子を迎え入れ、主家復興のため織田信長に反抗を企てた。
貞景は鯰江城に空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施し、百済寺の僧や一向宗と結び籠城したが、天正元年(1573年)9月、柴田勝家らの軍勢によって落城した[2]。鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、貞景の子・定春は豊臣秀吉に従い、大阪に鯰江の地名を残している。
地理
[編集]鯰江城は愛知川の断崖を活かして築かれ、川から城への上り道は細道1か所という防御に有利な地形であった。現在は県道が通り、川岸は田畑として利用されている。
現況
[編集]現在は、土塁の一部や石碑が残るのみであり、城跡は住宅地となっている。
脚注
[編集]- ^ 「東近江市内の指定等の文化財」東近江市公式HP
- ^ 滋賀総合研究所(1992)、p.68
参考文献
[編集]- 滋賀総合研究所『湖国百選 Beautiful Shiga 101 城』滋賀県企画部地域振興室、1992年