コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

鮎沢巌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鮎澤巌から転送)

鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 1972年11月30日)は、元・国際労働機関(ILO)職員。国際基督教大学名誉教授[1]

経歴

[編集]

茨城県久慈郡太田町(現・常陸太田市)で元水戸藩士の次男として生まれた[2][3]芝中学校在学中に安部磯雄ユニテリアン教会や社会主義協会に足を運び、その社会改良思想に影響を受けた。1911年芝中学校を卒業[2]フレンド平和奨学会(Friend Peace Scholarships)の奨学生としてアメリカ合衆国に留学[4][5]ハワイ中央太平洋学院(ハイスクール)、ホイットマンカレッジを経て、1915年ハバフォード大学に入学[2]。社会学と社会事業(特に社会問題と労働問題)を学ぶ。1917年ハバフォード大学を卒業。コロンビア大学のニューヨーク・ソーシャルワーク・スクールに入学し労働問題を専攻。国際労働立法論に関する博士論文を提出。1920年コロンビア大学を卒業[5]ILO帝国代表ジュネーブ事務所に勤務[2]。1923年から日本国際連盟を脱退した1933年までILO本部に勤務[2][4]。1934年日本に帰国し[5]、1935年7月から日本がILOを脱退した翌年の1939年5月までILO東京支局長[6]。のち世界経済調査会常任理事[2]啓明学園理事などを務めた[7]

戦後はGHQとの折衝にあたり、対日労働政策の立案と施行に重要な役割を果たした[4][8]。1945年10月労務法制審議委員会事務局長[4]。1946~1949年中央労働委員会(中労委)事務局長[9][注 1]、中労委公益委員[10]国士舘創立者の柴田徳次郎と芝中学校の同窓・友人であった縁で、1945年12月に至徳専門学校校長[5]、1947年に至徳中学校(現・国士舘中学校)校長、1948年に至徳高等学校(現・国士舘高等学校)・至徳商業高等学校校長となった[11]。1949年5月に校長を退任した後、ユネスコ在日代表部顧問[2]国際基督教大学教授(1952~1965年)[1]普連土学園理事長などを務めた[2]。1966年フランス永住のため離日[2]。1972年ノルマンディー地方[2]ブールアシャール村の病院で死去、78歳[4]。晩年は世界連邦建設同盟理事長を務めた[4]

娘の露子(1923年-2011年)は、ナポレオン麾下一の名将ダヴー元帥の家系、フランス空軍大佐・第5代アウエルシュタット公爵レオポルド・ダヴー(1904年-1985年)と結婚し、第6代公シャルル・ルイ・イワオ・ダヴー(1951年-2006年)ら6人の子を儲けた。

人物

[編集]

著書

[編集]

単著

[編集]
  • 『ワシントンに於ける世界繊維工業会議報告』(述、木曜倶楽部[木曜倶楽部講演集 第4輯]、1937年)
  • 『世界に進出する日本の繊維工業――国際繊維工業三部制技術会議について』(講述、協調会調査部編、協調会調査部、1937年)
  • 『国際労働機関と日本』(国際労働局東京支局、1938年)
  • 『満洲国農業政策の発展』(世界経済調査会、1942年)
  • 『ヴェルサイユ體制の崩潰過程とその將來』(述、東洋經濟新報社出版部[經濟倶樂部講演 昭和18年 第1輯]、1943年)
  • 『世界経済理論報告会記録』(世界経済調査会、1943年)
  • 『民主主義の本質』(弘學社、1946年)
  • 『世界の労働運動史』(毎日新聞社、1947年)
  • 『勞働組合讀本』(政治教育協會、1947年)
  • 『社會思想と國際勞働』(東洋經濟新報社[東洋經濟講座叢書 第16輯]、1947年)
  • 『ストライキ』(二見書房、1948年)
  • 『真実の世界』(労働文化社、1949年)
  • 『アメリカの労働組合――新しい労働運動の指標』(養徳社、1950年)

共著

[編集]
  • 『パルプの自給に就いて 勞働條件より見たる本邦繊維工業の世界的位地』(菊池寅七・鮎澤巖述、東洋經濟出版部[經濟倶樂部講演 第154輯]、1937年)
  • 『戰後の世界秩序について 楠公精神』(鮎澤巖・林彌三吉述、東洋經濟新報社出版部[經濟倶樂部講演 昭和17年 第10輯]、1942年)
  • 『勞働問題解決の方向』(小川半次共著、勞働文化社、1948年)
  • 『日本外國勞働運動史』(細谷松太共著、中央勞働學園[新勞働教育講座]、1950年)
    • 改訂版『日本外国労働運動史』(細谷松太共著、日本労政協会編、日本労政協会、1952年)
  • 『労働運動史』(細谷松太、渡辺惣藏共著、北海道庁労働部労働教育課編、日本労政協会[労働教育講座]、1952年)

訳書

[編集]
  • ユージーン・ステーリイ『全訳 世界経済の転換』(佐藤敏行共訳、世界経済調査会、1941年)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 中央労働委員会事務局編『労委十年の歩みを語る』(中央労働委員会、1956年)によれば、1946年に中労委事務局長に任命された。賀川(1996)によれば、1947年から1949年まで中労委事務局長[3]。ハバフォード大学によれば、1948年まで中労委で働いた[5]

出典

[編集]
  1. ^ a b 組織 国際基督教大学(ICU)
  2. ^ a b c d e f g h i j 浪江健雄「国士舘を支えた人々 鮎澤巌」『楓原 : 国士舘史研究年報』第3巻、国士舘、2011年、261-267頁、ISSN 1884-9334NAID 40019237994 
  3. ^ a b 香川孝三「戦前期日本の労働組合とアジア(2)」『国際協力論集』第4巻第2号、神戸大学大学院国際協力研究科、1996年12月、19-39頁、doi:10.24546/00181231ISSN 0919-8636NAID 120000946840 
  4. ^ a b c d e f 萩原進「鮎沢巌」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、56頁
  5. ^ a b c d e Ayusawa, Iwao Frederick, (1894-1972) Papers, 1918-1964 ハバフォード大学
  6. ^ 小史 ILO駐日事務所
  7. ^ 清沢洌『暗黒日記』昭和19年5月11日
  8. ^ 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
  9. ^ 国際友和会・日本友和会の歴史 (PDF) 日本友和会
  10. ^ 工藤幸男『日本とILO : 黒子としての半世紀』第一書林、1999年。ISBN 4886461506NCID BA4484385Xhttps://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002845422-00 
  11. ^ 柴田德次郎―26歳の建学― (PDF) 」『国士舘大学新聞』第483号、2011年1月25日
  12. ^ a b 回想のライブラリー(9) 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」
  13. ^ 日本友和会について 日本友和会
  14. ^ 日本友和会年表(編集継続中) 日本友和会
  15. ^ 渡辺章「第一章 昭和20年労働組合法 (PDF) 」『労働組合法立法史料研究(解題篇・条文史料篇)』労働政策研究・研修機構(JILPT)、2014年
  16. ^ 篠原初枝「国際連盟の遺産と戦後日本 (後藤乾一教授退職記念号 : アジアのなかの日本 日本のなかのアジア)」『アジア太平洋討究』第20巻、早稲田大学アジア太平洋研究センター、2013年2月、89-96頁、ISSN 1347-149XNAID 120005290542 
  17. ^ 社会政策学会史料 『社会政策学会年報』第1輯所収の「学会記事」 社会政策学会

関連文献

[編集]

外部リンク

[編集]