高柳出己
大阪学院大学高等学校硬式野球部 コーチ | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県久喜市 |
生年月日 | 1964年6月2日(60歳) |
身長 体重 |
188 cm 86 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1987年 ドラフト1位 |
初出場 | 1988年5月15日 |
最終出場 | 1993年6月15日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
この表について
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高柳 出己(たかやなぎ いずみ、1964年6月2日[1] - )は、埼玉県久喜市出身の元プロ野球選手(投手)[1]。1996年の登録名は髙柳 出己(読み同じ)で、引退後も日本プロ野球OBクラブなど一部活動では「髙柳」表記を用いている[2]。
経歴
[編集]野球を始めたのは中学校の頃からで小学校時代は剣道をやっていた[1]。後にこの剣道の経験がけん制やフィールディングに役立ったという[1]。久喜市立久喜南中学校卒業後、春日部工高に進学するも、高校時代は登板機会に恵まれなかった[1]。2年秋に関東大会初戦で先発するも敗退。1年先輩には、当時投手だった古川慎一がいる。
高校卒業後は、明治大学のセレクションを受け合格していたものの[1]、社会人野球の日本通運に入社。5年目となる1987年の東京スポニチ大会では決勝戦完投勝利して優勝に貢献。続く四国大会でも優勝してMVP。都市対抗では、1回戦で先発に起用され、富士重工業の向田佳元と投げ合い9回裏サヨナラ勝ち。2回戦でNTT東海に敗退するが[3]、好投手として注目される。在京セ・リーグの球団が希望だったというが1987年のプロ野球ドラフト会議で川島堅のクジを外した近鉄バファローズから1位指名を受け入団[1]。
プロ1年目の1988年は開幕二軍であったが5月に一軍初登板を果たし、同年10月19日の伝説の対ロッテオリオンズダブルヘッダー(10.19)第2試合に先発[1]。1989年10月12日の対西武ライオンズダブルヘッダー第1試合にも先発し[1]、伝説のブライアント3連発(第2試合まで含めると4連発)にも立ち会っている[4]。
1994年、1995年と右肩痛もあって2年連続で一軍登板が無く自由契約となる。球団からはスカウトの打診があったが、現役続行を希望して1996年に投球フォームをサイドスローに変え、千葉ロッテマリーンズにテスト入団するも肩痛が続いて一軍登板のないまま同年限りで現役を引退した[1]。
1998年から2002年までは佐川印刷で軟式野球部の顧問を務めていた[1]。またプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズでプレーした。その間は家業を手伝ったり、いくつかの仕事を経験したが、接骨院を経営する知人の影響から[5]、専門学校を経て2007年、柔道整復師国家試験に合格、大阪府羽曳野市にて「たかやなぎスポーツアカデミー」「高柳整骨院」を開院[1]。
2017年からは大阪公立大学硬式野球部[6]のコーチも務めた[7]。2023年限りで退任し[8]、2024年からは大阪学院大学高校のコーチを務める[9]。
人物
[編集]手が大きいことで有名で、片手で硬球を7個掴めた。 足のサイズも31cmあり、自身がルーキーの年にブライアントがシーズン途中で急遽移籍してきた際にはスパイクを提供したという[10]。
5人の子供に恵まれ、長女はタレントの高柳愛実[11]。その妹にバレーボール選手の高柳萌(岡山シーガルズ)。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1988 | 近鉄 | 22 | 14 | 2 | 1 | 2 | 6 | 6 | 0 | -- | .500 | 414 | 104.2 | 96 | 10 | 17 | 3 | 2 | 61 | 1 | 0 | 41 | 40 | 3.44 | 1.08 |
1989 | 16 | 15 | 1 | 1 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 298 | 67.1 | 82 | 13 | 24 | 0 | 3 | 39 | 1 | 0 | 44 | 42 | 5.61 | 1.57 | |
1990 | 26 | 15 | 2 | 0 | 1 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 431 | 95.1 | 112 | 9 | 35 | 2 | 3 | 46 | 1 | 0 | 58 | 55 | 5.19 | 1.54 | |
1991 | 23 | 19 | 3 | 2 | 1 | 7 | 5 | 0 | -- | .583 | 554 | 131.2 | 125 | 16 | 47 | 3 | 1 | 55 | 1 | 0 | 61 | 55 | 3.76 | 1.31 | |
1992 | 24 | 21 | 6 | 3 | 0 | 8 | 8 | 0 | -- | .500 | 587 | 139.2 | 142 | 19 | 42 | 2 | 2 | 76 | 2 | 0 | 65 | 61 | 3.93 | 1.32 | |
1993 | 8 | 7 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 161 | 33.0 | 46 | 6 | 20 | 0 | 1 | 16 | 1 | 0 | 20 | 18 | 4.91 | 2.00 | |
通算:6年 | 119 | 91 | 15 | 7 | 4 | 29 | 30 | 0 | -- | .492 | 2445 | 571.2 | 603 | 73 | 185 | 10 | 12 | 293 | 7 | 0 | 289 | 271 | 4.27 | 1.38 |
記録
[編集]- 初登板・初先発:1988年5月15日、対日本ハムファイターズ8回戦(東京ドーム)5回完了、3失点で敗戦投手
- 初勝利:1988年8月7日、対阪急ブレーブス16回戦(西宮球場)8回完了、5安打3失点
- 初完投勝利※:1988年10月14日、対阪急ブレーブス25回戦(藤井寺球場)9回、5安打3失点
- 初完封勝利※:1989年7月31日、対日本ハムファイターズ18回戦(藤井寺球場)9回、7安打
※1988年9月3日、対阪急ブレーブス21回戦(藤井寺球場)6回表2死まで無失点に抑えて降雨コールド勝利
表彰
[編集]- 月間MVP:1回 (1991年7月)
背番号
[編集]- 20 (1988年 - 1995年)
- 30 (1996年)
登録名
[編集]- 高柳 出己(たかやなぎ いずみ、1988年 - 1995年)
- 髙柳 出己(たかやなぎ いずみ、1996年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l [1] 真木将樹が運営するサイト ドリームネクストより 2012年6月5日閲覧
- ^ 2023年「第29回K’2nd全国少年少女野球教室」講師一覧 日本プロ野球OBクラブ(2024年10月25日閲覧)
- ^ - 都市対抗野球大会60年史
- ^ [2]たかやなぎスポーツアカデミー 2012年6月5日閲覧
- ^ 戦力外→引退後は「1年くらい家に閉じこもって…」元近鉄ドラ1が語る“接骨院の経営者”の今「引きこもることも人生には必要です」Number Web 2022年12月27日
- ^ “大阪公立大学硬式野球部”. 大阪公立大学硬式野球部. 2023年1月6日閲覧。
- ^ 「大阪公立大野球部、統合で開花 初の全国大会で旋風なるか」『産経ニュース』2023年6月3日。2024-10-017閲覧。
- ^ 高柳スポーツアカデミー [@takayanagi_sports_academy] (2024年3月30日). "高柳コーチ、大阪公立大学、立命館大学は23年で退任されます。". Instagramより2024年10月17日閲覧。
- ^ “硬式野球部(男子)|体育系クラブ|クラブ紹介”. 大阪学院大学高等学校. 2024-10-017閲覧。
- ^ 「門限を破った加藤哲郎が2階から入って…」元近鉄ドラ1選手が明かす“自由すぎた選手寮” 加入直後のブライアントにスパイクを貸すも…Number Web 2022年12月27日
- ^ スポーツクロス
関連項目
[編集]- 埼玉県出身の人物一覧
- 大阪近鉄バファローズの選手一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
- 吹石徳一 - 近鉄時代の同僚かつ娘が共に舞夢プロ所属というつながりを持つ。
外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 髙柳出己 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- たかやなぎスポーツアカデミー
- 巻き爪ケア高柳