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村井満寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高階満寿から転送)
村井 満寿
(むらい ます)
1921年[1]
基本情報
別名 相澤 滿壽[2]、相澤 満寿子[1]、相沢 ます子[3]、高階 満寿[4]、高階 ます子[5]
生誕 (1899-10-13) 1899年10月13日
出身地 日本の旗 日本
死没 (1988-09-07) 1988年9月7日(88歳没)
学歴 東京音楽学校
ジャンル 歌手
共同作業者 高階哲夫

村井 満寿(むらい ます、1899年明治32年〉10月13日[6][7] - 1988年昭和63年〉9月7日[6][8])は、日本アルト歌手北海道札幌市札幌市時計台を題材とした楽曲「時計台の鐘」の歌い手として知られる。同曲の作曲者である高階哲夫は1人目の夫。2人目の夫はバリトン歌手にして日本初の腹話術師でもある澄川久(本名:村井武雄)であり、後夫との子にクラリネット奏者の村井祐児がいる[9]。納豆の研究で知られる農学者の半澤洵は母方の叔父にあたる[10][11]

経歴

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北海道札幌区(後の札幌市)で誕生した[12]。旧姓は相沢[6]。幼少時に、教会の宣教師の賛美歌に感銘を受けて、音楽の道を志した[10][13]。また自宅の窓からは時計台が針まではっきりと見え、時計台に馴染んで少女期を送った[10][14]

高階哲夫

北海道庁立札幌高等女学校(後の北海道札幌北高等学校)を経て上京し[10]東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)本科を1920年(大正9年)に卒業[15][7]。同校出身の高階哲夫と共に、「相澤満寿子」の名で北海道内の演奏会に参加した後[1][16]、同校研究科を1922年(大正11年)に修了した[7][17]

同1922年、高階哲夫と結婚した[7]。高階は若手ヴァイオリニストの第一人者であり、2人の演奏会には多くの客が訪れた[18]

高階が札幌の街で受けた印象をもとに楽曲「時計台の鐘」を作曲すると[18]、満寿もその伴奏部分を手伝い、夫妻で意見を交換しつつ曲を仕上げていった[18][19]。1924年(大正13年)に大阪で、高階と共に「時計台の鐘」を初披露した[8]

1928年(昭和3年)には、満寿の歌う「時計台の鐘」が、NHK各局で放送され始めた[20]。満寿以外の歌手が歌う機会も増えた[20]。やがてレコード発売の話が持ち上がり、高階がこの曲を発案してから8年を経て[20]、「時計台の鐘」のレコードが、「高階ます子」名義で発売された[21][22]

1931年(昭和6年)に高階と離婚し、1933年(昭和8年)に澄川久と再婚した[20][23]

戦中の1945年(昭和20年)5月、東京の自宅を空襲で失い、実家を頼って札幌へ帰郷した[23]。それに先駆けて、戦中の1942年(昭和17年)6月に、音楽雑誌『国民の音楽』で「時計台の鐘」が取り上げられたことで。レコード発売から10年以上を経て、札幌のあちこちで「時計台の鐘」が流れており、満寿が驚くという一幕もあった[20]

1949年(昭和24年)に北海道大学助教授、1957年(昭和32年)に北海道学芸大学(後の北海道教育大学)札幌分校教授を歴任し、北海道栄養短期大学の教授も務めた[6]。また北海道高等盲学校へはピアノを寄贈し、北海道大学医学部の看護学校や助産婦学校で講師を務めるなど、次世代を担う若者たちのため、多方面で教育に携わった[20]

晩年は「お金にあまり興味が無い」といって、後述の受賞による賞金も、今まで世話になった学校などに寄付し、慎ましく過ごした[24]。息子たちが東京に移り住んだ後も、札幌に愛着を抱き、札幌で余生を送った[24]。1988年(昭和63年)9月7日、東京都多摩市の日本医大永山病院で、心不全のため88歳で死去した[25]

人物

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高階哲夫との離婚を経て、戦後に「時計台の鐘」が有名になったことで、前夫である高階の作った歌を数多く歌う機会があったが、このことについて実妹は「皮肉なこと」「割りきって歌ったと思う」と語っていた[26]。一方で高階と満寿の間の1人娘である高階由美(椙山女学園大名誉教授)によれば、満寿に先立って高階が1945年(昭和20年)に死去したとき[8]、満寿は「離婚は女性として、一番悲しいこと」と嘆いていたといい、「いつまでも父が大好きだったに違いない。父を恨みながらも最後まで『時計台の鐘』を歌い、この歌から終生離れることが出来なかった。そういう女性だったんです」と語っている[26]

受賞歴

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  • 1963年(昭和38年) - 北海道文化賞[27][28]
  • 1982年(昭和57年) - 北海道開発功労賞(音楽教育の推進と芸術文化の振興の功績による)[13][29]
  • 1985年(昭和60年) - 地域文化功労者表彰[30]

脚注

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  1. ^ a b c 「エンゼル館の音楽館 今二日目の演奏」『小樽新聞』小樽新聞社、1921年7月17日、5面。
  2. ^ 入学許可 東京音楽学校」『官報』、大蔵省印刷局、1916年4月6日、146頁、全国書誌番号:000841802022年3月21日閲覧 
  3. ^ 前川 2001, p. 20
  4. ^ 坂本憲哉「北の歌紀行 時計台の鐘 ビル街に今も澄んだ音色」『読売新聞読売新聞社、2002年3月2日、東京夕刊、15面。
  5. ^ 前川 2001, p. 227
  6. ^ a b c d 日外アソシエーツ 2010, p. 810
  7. ^ a b c d 前川 2001, pp. 204–205
  8. ^ a b c 前川 2001, pp. 206–207
  9. ^ 宮良 1983, pp. 24–25
  10. ^ a b c d 札幌市教育委員会 1978, pp. 138–139
  11. ^ 札幌市教育委員会 1983, pp. 304–305
  12. ^ STVラジオ 2002, p. 269
  13. ^ a b 北海道開発功労賞・北海道功労賞歴代受賞者” (PDF). 北海道. p. 14. 2022年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月16日閲覧。
  14. ^ 札幌市教育委員会 1983, pp. 300–301
  15. ^ 卒業証書授与 東京音楽学校」『官報』、大蔵省印刷局、1920年3月29日、674頁、2022年3月25日閲覧 
  16. ^ 「札幌演奏会の曲目決まる 明日から三日間」『小樽新聞』1921年7月15日、4面。
  17. ^ 卒業証書授与 東京音楽学校」『官報』、大蔵省印刷局、1922年4月19日、543頁、2022年3月25日閲覧 
  18. ^ a b c STVラジオ 2002, pp. 270–271
  19. ^ 前川 2001, pp. 50–51
  20. ^ a b c d e f STVラジオ 2002, pp. 274–275
  21. ^ 福田俊二・加藤正義 編『昭和流行歌総覧』 戦前・戦中編、柘植書房新社、1994年4月15日、69頁。 NCID BN10725821 
  22. ^ 前川 2001, p. 175
  23. ^ a b 宮良 1983, pp. 22–23
  24. ^ a b 宮良 1983, pp. 36–37
  25. ^ 「村井 満寿さん(声楽家、元北海道教育大教授)死去」『読売新聞読売新聞社、1988年9月8日、東京朝刊、31面。
  26. ^ a b 矢澤高太郎「うた物語 唱歌・童謡「時計台の鐘」前夫の作品を熱唱」『読売新聞』1998年8月2日、東京朝刊、4面。
  27. ^ 平成27年度 第2回北海道文化審議会 北海道文化賞関係資料” (PDF). 北海道. p. 8 (2015年9月11日). 2022年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月16日閲覧。
  28. ^ 「晴れの受賞を喜ぶ 道文化賞 みんな控えめに」『北海道新聞北海道新聞社、1963年10月15日、全道夕刊、7面。
  29. ^ 「道開発功労賞決まる 伊藤、福屋、村井さんに」『北海道新聞』北海道新聞社、1982年7月23日、全道朝刊、21面。
  30. ^ 「野村道ウタリ協会理事長ら 道内から二個人一団体 地域文化功労」『北海道新聞』北海道新聞社、1985年10月15日、全道朝刊、20面。

参考文献

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