高階富士夫
高階 富士夫(たかしな ふじお[1][注釈 1]、1911年[2] - ?)は、日本の飛込競技選手。1928年アムステルダムオリンピックに出場した[3]。のちに辻 富士夫(つじ ふじお)[4]:20。
経歴
[編集]茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)在学中の1927年、第3回日本選手権水泳競技大会の3m飛板飛込で優勝[5]。1928年アムステルダムオリンピックの飛込競技(飛板飛込)に参加、予選を通過して決勝に進出し、結果は9位であった (Diving at the 1928 Summer Olympics – Men's 3 metre springboard) [3][2][6]。
茨木中学校は、体育教諭杉本伝が指導に当たった水泳強豪校で、当時珍しい学校プールを擁し、高石勝男や石田恒信といったオリンピアンを輩出していた[7]。アムステルダムオリンピックにも茨木中から入江稔夫(およびOBの高石)が選手として参加しており[7]、杉本が飛込コーチとして参加している[7]。
オリンピック飛込競技に初めて出場した日本選手は、1920年アントワープオリンピックの内田正練(高飛込)であるが、内田は競泳選手として赴いた現地で飛込競技への参加を決めている[1]。日本のオリンピックの歴史上、高階は国内予選会を経て飛込競技に派遣された初の選手であり[1]、また初の飛板飛込選手である。
その後旧制浪速高等学校(大阪大学の前身のひとつ)に進み[5]、1929年の第5回日本選手権水泳競技大会の3m飛板飛込で2度目の優勝を果たしている[5]。
1930年代も競技界で活動しており、1936年の『水泳』誌上にはリチャード・デゲナー[注釈 2]に関する論考「デゲナーより何を得たか」を掲載[8][9]、また飛込競技に関する座談会に出席している[10]。
のちに辻姓となる[4]:20。日本水泳連盟で理事を務め[11]:73、機関誌『水泳』の編集者を務めたほか[12]:79、水泳に関する著書がある。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ Sports Reference や Olympedia などのデータベースでは "Fumio Takashina" と誤っている。
- ^ デゲナーは当時アメリカで活躍した飛込の名選手で、日米対抗戦で来日したことを受けての論考[8]。デゲナーは1932年ロサンゼルスオリンピックで銅メダル、1936年ベルリンオリンピックで金メダルを獲得し、のち国際水泳殿堂入りした。
出典
[編集]- ^ a b c “飛込競技”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2021年8月24日閲覧。
- ^ a b “Fumio Takashina Olympic Results”. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月24日閲覧。
- ^ a b “大阪関係選手のオリンピック記録”. 大阪水泳協会. 2021年8月24日閲覧。
- ^ a b 高石勝男「杉本先生の思いで」『水泳』第86号、日本水泳連盟、1950年1月、2021年8月24日閲覧。
- ^ a b c “日本選手権歴代選手権獲得者 男子3m飛板飛込”. 飛込 歴代優勝者. 日本水泳連盟. 2021年8月24日閲覧。
- ^ 宮畑虎彦「30年前の話」『水泳』第111号、日本水泳連盟、1956年7月、2021年8月24日閲覧。
- ^ a b c “戸田大会優勝記念の写真”. 久敬会 (2019年6月19日). 2021年8月20日閲覧。
- ^ a b 高階富士夫「デゲナーより何を得たか」『水泳』36・37、日本水上競技連盟、1936年2月、30-31頁、2021年8月24日閲覧。
- ^ 高階富士夫「デゲナーより何を得たか(承前)」『水泳』39・40、日本水上競技連盟、1936年9月、40-42頁、2021年8月24日閲覧。
- ^ 「飛込を語る座談会」『水泳』39・40、日本水上競技連盟、1936年9月、27-40頁、2021年8月24日閲覧。
- ^ 「昭和廿五年定例代議員会議事録」『水泳』第89号、日本水泳連盟、1951年1月、2021年8月24日閲覧。
- ^ 「奥付」『水泳』第89号、日本水泳連盟、1951年1月、2021年8月24日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Fumio Takashina - Olympedia