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高野百里

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野 百里(たかの ひゃくり、寛文6年10月12日1666年11月8日) - 享保12年5月12日1727年6月30日))は、江戸時代前期の俳人。諱は勝春、字は文館、通称は市(郎)兵衛。別号に茅風邪、雷堂。漢詩人高野蘭亭の父。

江戸日本橋で魚問屋を経営する傍ら、服部嵐雪の雪門派で俳諧を行った。

生涯

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寛文6年(1666年)10月12日、江戸小田原町(日本橋室町一丁目と日本橋本町一丁目の間)の魚問屋小鍛治長次郎高野勝昌の子に生まれた[1]

延宝5年(1677年)頃、同じ小田原町の魚問屋杉山杉風と親しくして俳諧を始め、松尾芭蕉に師事し、天和3年(1683年)蕉門十哲服部嵐雪に入門した[1]。当初は茅風と号したが、貞享3年(1686年)、嵐雪の命で百里と改号した[1]元禄2年(1689年)に刊行された草壁挙白編『四季千句』に初入句した[1]。宝永4年(1707年)嵐雪が死去すると、その追善活動を主導した。

宝永末年、不知火を見に九州へ旅行した[2]

名声が高まると共に、入門志望者も多く出たが、交友を嫌い門弟を取らず、交友を持ったのは白雲、柳川琴風等2,3名のみだった[1]

享保12年(1727年)5月12日病没した[1]。死に臨み、医師原芸庵を呼んで、辞世に「しんでおいてすゞしき月をみるもよし」と詠もうとしたが、芸庵が騒がしいので書き損じたとして、「みるぞかし」と改めた[1]。墓所は本所東江寺[1](現在は葛飾区東金町)。

編著

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  • 『銭竜賦』 - 宝永2年(1705年)刊、『日本俳書大系』第3巻蕉門俳諧後集、『俳諧文庫』第7編嵐雪全集収録
  • 『風の上』 - 宝永4年(1707年)刊
  • 『続誰が家』 - 宝永7年(1710年)?刊
  • 『遠のく』 - 宝永5年(1708年)刊、嵐雪一周忌
  • 『嵐雪十三回忌集(散紅葉)』 - 享保4年(1719年)刊、『未刊俳諧追善集と研究』第2期第13冊収録
  • 『嵐雪十七回忌集』 - 享保8年(1723年)自序
  • 『普白追善集』 - 享保11年(1726年)刊
  • 『ふるふすま』 - 享保11年(1726年)跋、芭蕉三十三回忌
  • 『さるすへり』 - 享保頃刊

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 高橋昌彦「高野蘭亭伝攷(上)」『語文研究』第60号、九州大学国語国文学会、1985年
  2. ^ 桃李庵南濤編『俳諧名家全伝』三松堂、1897年 p.253