高野宗順
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時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
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生誕 | 安政元年12月26日[1](1855年2月12日) |
死没 | 大正10年(1921年)5月5日[1] |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 松木家→高野家 |
父母 |
父:松木宗有、母:葉室孝子(葉室顕孝の二女) 養父:高野保誠 |
兄弟 | 宗順、松木宗隆 |
妻 |
先室:奈代(伊藤徳右衛門の長女) 後室:唐橋末子(唐橋在光の四女) |
子 | 宗正 |
高野 宗順(たかの むねおさ)は、幕末の公家、明治期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓は松木[1]。
経歴
[編集]山城国京都で左近衛中将松木宗有の二男として生まれる[1][2][3][4]。安政4年4月(1857年4-5月)、従五位下に叙された[2]。慶応元年10月(1865年11-12月)侍従に任じられ、明治2年2月(1869年3-4月)従四位上に叙されたが、1879年(明治12年)4月、病のため松木家廃嫡となり位記返上を命ぜられた[2][3]。1880年(明治13年)5月、京都府雇・庶務課勤務となり、以後、京都府等外二等出仕、京都府九等属、宮内属、東華銀行取締役などを務めた[2][3][5]。先代の子爵高野保誠死後に養子となり、1890年(明治23年)9月16日、子爵を襲爵した[1][2][3][4][6]。
1896年(明治29年)10月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[7][8]、1911年(明治44年)7月9日まで3期在任した[5]。高野子爵家は負債が多く[9]、1912年(明治45年)2月16日、華族礼遇が停止され[10]、同年12月16日に失爵[11]、正四位返上を命じられ[12]、勲四等を褫奪された[13]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成 上巻』24頁。
- ^ a b c d e 『大日本華族大鑑』96頁。
- ^ a b c d 『大日本人物誌』た95頁。
- ^ a b 『人事興信録 第3版』た133頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』46頁。
- ^ 『官報』第2167号、明治23年9月17日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。
- ^ 『官報』第3987号、明治29年10月10日。
- ^ 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』70頁 2006年 中央公論新社
- ^ 『官報』第8605号、明治45年2月28日。
- ^ 『官報』第125号、大正元年12月28日。
- ^ 官報 1912年12月28日 七四〇頁
- ^ 官報 1913年3月28日 五九三頁
- ^ 『松木家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1911年。
- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 高野保誠 |
子爵 高野家3代 1890年 - 1912年 |
次代 失爵 |