コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

髙田多喜男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高田多喜男から転送)
たかだ たきお

髙田 多喜男[1]
生誕 (1929-11-13) 1929年11月13日(95歳)
大阪府大阪市北区
住居 奈良県生駒市生駒台北
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都大学法学部
職業 京都近鉄百貨店社長・取締役 相談役
近鉄百貨店副社長
配偶者 あり
子供 2人
髙田リウ(母)
テンプレートを表示

髙田 多喜男(たかだ たきお、1929年昭和4年〉11月13日 - )は、大阪府大阪市北区生まれ、奈良県生駒市出身の日本実業家近鉄百貨店副社長として阿倍野本店リニューアルを成功させ、京都近鉄百貨店社長として同社京都店増床にかかわった。

来歴・エピソード

[編集]

誕生から近鉄入社まで

[編集]

1929年昭和4年)11月13日大阪府大阪市北区生まれ。物心つく前に父を亡くした後に奈良県生駒市へ移り住み、母・リウに女手一つで育てられた[2]

旧制郡山中学に通学し、校舎の1階で乾電池製造をして働き、2階で勉強する生活を送っていた15歳の時に太平洋戦争の終戦を迎える。海軍兵学校に進学すると決めていた髙田は涙が出てきたという[3]

近鉄への入社

[編集]

髙田は京都大学法学部へ入学し、下宿せず生駒の自宅から通学していた。文章を書くのが好きで新聞社への入社が希望だった。しかし、母親があまり気乗りせず、転勤がない(と考えた)近畿日本鉄道(近鉄)への就職を望んだ。髙田は親孝行のため、同社への入社試験を受けることにした。京大には近鉄の求人が無かったので、縁故で試験を受けられることになったものの、試験そのものは公平に行われた[2]

髙田は合格し、1953年(昭和28年)4月に近鉄へ入社した。しかし、鉄道部門ではなく同社百貨店部(1972年に旧・近鉄百貨店に分社化)へ配属され、外商業務の担当となった。

近鉄百貨店時代

[編集]

東京近鉄百貨店の初代店長となった際のみ生駒市を離れた。サラリーマン時代で苦しかった時というのがないと感じる髙田だが、強いて挙げるなら東京出店時の業務だという。関西に戻ってからはストアプランニングを手掛ける「アルテリア」の羽田良美と協力して阿倍野本店1988年(昭和62年)のリニューアルに貢献し、山中鏆伊勢丹松屋東武百貨店)と並ぶ人物だと業界全体で評価を受けていた。

このため、髙田が近鉄百貨店社長となると言われていたが、1993年(平成5年)2月末、当時近鉄百貨店社長だった林修から京都近鉄百貨店の社長に就任するよう内示を受けた[4]

京都近鉄百貨店時代

[編集]

髙田は百貨店へは子供時代からよく行っており、京都大学に通学していた。ところが、同じ大学・学部の先輩で近鉄グループ総帥だった上山善紀らと異なり、もともと丸物京都本店へ立ち寄ったことはない。また、近鉄グループの一員として同社の経営基盤が弱いことも熟知しており、社長就任を断ることも考えた。しかし、京都本店を訪ねて若い女性販売員からネクタイから買ったところ、丁寧な接客から、社長になるか迷ったことを非常に恥じた。社長になる決心をし、1993年5月に就任した[4]。 また、前社長の井上素夫らは滋賀県草津市JR草津駅前へ百貨店を出店する契約について二転三転する態度を取って、地元からの反発を招いていたが[5][6]、髙田は再検討を決めて出店交渉を続けることにした[7]。その後、駅に近い隣接地で計画が立て直され、1997年(平成9年)9月5日に草津近鉄百貨店が開業した。

趣味

[編集]

大学時代に友人から碁を習い、1994年ごろに五段の免状を取得した[8]。ほかに、退職後油絵にも挑戦したいと述べている。

退職後

[編集]

かつて手掛けた店

[編集]

吉祥寺の東京店は2001年[注 1]、京都店は近鉄百貨店の直営店となったが2007年に閉店した。しかし、阿倍野本店はあべのハルカス近鉄本店へリニューアルされたほか、草津近鉄百貨店は現在も近鉄百貨店草津店として営業している。のちに近鉄百貨店[注 2]社長となった秋田拓士は草津店を地域密着型の店として運営し、「ツタヤがオープンして草津が一番勢いがあります」と評している[9]

戦争体験

[編集]

退職後も生駒市に住んでいる。2008年(平成20年)には生駒市図書会館で戦争体験や教訓を語り、日本史に関心の深い髙田は、戦争体験を述べる以上に昭和初期から1945年(昭和20年)までの歴史を検証し、教訓を共有することが重要だと訴えた[3]

髙田を扱った本

[編集]
  • 渡辺一雄『新風 ある百貨店の挑戦』経営書院 1995年11月30日。ISBN 4-87913-564-X
    • 京都近鉄百貨店社長だったころ、元・同業者(大丸社員)だった渡辺一雄が髙田や京都近鉄百貨店の社史を取材して出版した。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 京都近鉄百貨店の経営再建を優先したため閉鎖になった。
  2. ^ 丸物・京都近鉄百貨店の法人格を引き継いで上場企業になった(近鉄百貨店#沿革などを参照)。このため、秋田は髙田の7代後の社長といえる。

出典

[編集]
  1. ^ 渡辺一雄『新風 ある百貨店の挑戦』経営書院 1995年11月30日。ISBN 4-87913-564-X
  2. ^ a b 渡辺一雄 (作家)『新風 ある百貨店の挑戦』 P21-23
  3. ^ a b 『太平洋戦争:「夏の集い~語り継ぐ戦争と平和~」 生駒の高田さん体験談 /奈良』毎日新聞毎日新聞社)2008年8月18日 地方版/奈良 23頁
  4. ^ a b 渡辺一雄 (作家)『新風 ある百貨店の挑戦』 P8-20
  5. ^ “百貨店相次ぐ出店撤回、大津・草津市に波紋(地方経済面 近畿A)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 9. (1992年9月18日) 
  6. ^ “草津の再開発事業、京都近鉄百など賃借料下げなど要請”. 日本経済新聞(地方経済面 近畿A) (日本経済新聞社): p. 9. (1992年10月17日) 
  7. ^ “京都近鉄百貨店、JR草津駅前の再開発――出店へ方針を転換”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 10(地方経済面 近畿B). (1993年6月2日) 
  8. ^ 『[金沢盛栄の囲碁サロン]今週の対局者 京都近鉄百貨店社長・高田多喜男さん』1996年3月7日 大阪夕刊 3頁 3面 - 毎日新聞
  9. ^ 出世ナビ 社長に聞くセレクション「郊外店、こだわり食品で再生 無印やロフトも取り込み」 - 日本経済新聞社

関連項目

[編集]
先代
井上素夫
京都近鉄百貨店
(現・近鉄百貨店)社長
第7代:1993年 - 1997年
次代
稲垣繁男