高田勝生
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1904年 |
没年月日 | 1997年 |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手、外野手 |
初出場 | 1939年8月7日 |
最終出場 | 1940年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
この表について
|
高田 勝生(たかだ かつお、1904年 - 1997年)は、日本の野球選手・監督。京都府出身[1]。
来歴・人物
[編集]山陽電鉄を経て、明石中学の監督を務める。楠本保や中田武雄、山田勝三郎、嘉藤栄吉らを育てた。伝説の名勝負「中京商対明石中延長25回」の時の監督でもある[2]。
関西野球界の重鎮として知られ、1938年秋、34歳にしてライオン軍の監督に招聘される[2]。選手登録もしていたためか1939年8月7日の巨人戦(西宮球場)に出場[3]。この試合では、左翼手の鬼頭数雄が負傷退場し、本来一塁手を守っていた玉腰年男が左翼に回ったため、急遽一塁手として出場することになった。そして、4回表の打席でセンター前ヒットを打ち、5回裏に先発投手の岡本利之が一塁手に回った(投手は近藤久に交代した)ため、ベンチに下がった。選手としては、翌1940年に守備固めとして1試合に出場(打席に立たず)したのみで、通算成績として通算打率10割という、記録を有している。
ライオン軍の監督として3年間指揮。投手では近藤久 、打者では鬼頭数雄,坪内道則が活躍したが、チームの層の薄さと親会社のゴタゴタにより成績は芳しくなかった(勝率は初年度の1938年秋季の.487が最高で年を追うごとに下降している)。1940年にライオン軍の監督を辞任後、1943年に南海軍の監督に就任[2]。しかし、南海でも戦時下の状況悪化により川崎徳次ら主力が応召、野球用語の英語禁止や戦闘帽姿に意気あがらない[4]状況の中、成績は低迷。さらに前年のエース・神田武夫が持病の肺結核により22歳で死去したことにショックを受け、7月27日に加藤喜作に監督の座を譲って辞任した。その後、野球監督をつとめたという記録は見当たらない。退団後、戦後の詳しい消息および没年月日は不明だったが、2020年、ベースボールマガジン社発刊の「名将の肖像」によると1997年没(月日は不明)。
野球評論家の竹中半平は、自著で高田のことを、高校野球の監督で華々しい実績を残したため、手腕を期待されてプロ野球監督に招聘されたが、芳しい戦績を残せなかったことから「高田には凡庸な印象しかない」[5]と評している。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1939 | ライオン | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1.000 | 1.000 | 2.000 |
1940 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
通算:2年 | 2 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1.000 | 1.000 | 2.000 |
年度別監督成績
[編集]年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1938秋 | ライオン | 5位 | 40 | 19 | 20 | 1 | .487 |
1939 | 8位 | 96 | 33 | 58 | 5 | .363 | |
1940 | 9位 | 104 | 24 | 76 | 4 | .240 | |
1943 | 南海 | 8位 | 48 | 17 | 30 | 1 | .362 |
通算:4年 | 288 | 93 | 184 | 11 | .336 |
- 1943年は開幕から7月27日まで
背番号
[編集]- 30 (1938年秋 - 1940年、1943年)
脚注
[編集]- ^ 野球回廊(高田勝生のプロフィール)
- ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、316ページ
- ^ 職業野球!実況中継(昭和14年8月7日〈月〉ライオンVSジャイアンツ戦)
- ^ 南海ホークス栄光の50年
- ^ 竹中半平著「背番号への愛着」より(高田勝生への一行コメント)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 高田勝生 - NPB.jp 日本野球機構