高瀬武次郎
高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日(1869年1月28日) - 昭和25年(1950年)2月9日)は明治から昭和にかけての陽明学者。号は惺軒。従三位勲三等文学博士京都帝国大学名誉教授。
生涯
[編集]明治元年12月16日(1869年1月28日)、讃岐国山田郡西十川村仲下所(香川県高松市十川西町107番地1)佐々木弥惣八(八十八、小五郎)の四男に生まれた[2]。鰹宇神社で森口四郎に儒学を学ぶ[2]。
京都府立第一中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校)[3]、第四高等学校[2](金沢市)または第五高等学校[4](熊本市)を経て、明治31年(1898年)7月東京帝国大学文科大学漢学科を卒業し、同大学院に進学、明治38年(1905年)11月論文「先秦諸子哲学」により文学博士号を取得、明治39年(1906年)1月東京帝国大学講師、同時に哲学館、日蓮宗大学、佛教大学、早稲田大学、曹洞宗大学、明治大学講師も務めた[1]。
1907年(明治40年)7月京都帝国大学助教授となり、大阪洗心洞学会にも毎月第三日曜日に出講した[1]。
明治45元年(1912年)2月28日、清へ留学に出発し(同年中華民国成立)、北京、上海、寧波、余姚、廬山を巡った後、ヨーロッパに渡り、ベルリン、ロンドンを経てアメリカ合衆国経由で、大正4年(1915年)3月帰国した[5]。京都大学支那哲学史教授に就任した[1]。
大正10年(1921年)洗心洞予備学童顧問に就任した[5]。大正14年(1925年)1月15日経筵進講控となり、大正14年(1925年)7月から11月まで中国南部を旅した[1]。
昭和3年(1928年)経筵進講に任ぜられ[1]、昭和天皇に講義を行った。昭和3年(1928年)12月16日、還暦を以って京都大学、経筵を辞職し、龍谷大学、立命館大学、臨済宗大学(花園大学)、関西大学、武道専門学校、女子専門学校(京都女子大学)等で教鞭を執った[1]。
子の高瀬安貞は東京に住んだ[2]。京都市北区小山下内河原町69番地の旧宅は京都市社会福祉協会に寄付され、社会福祉法人安楽荘となった[2]。2009年5月、安楽荘跡地に富田産婦人科病院デイケアへいあんが新築移転し、冨田病院デイケアセンターとみたが開業した[6]。
旧蔵書は九州大学中央図書館に「高瀬文庫」として保存されている[7]。
著書
[編集]- 『日本之陽明学』鉄華書院、明治31年(1898年)
- 『陽明階梯 精神教育』鉄華書院、明治32年(1899年)
- 『支那文学史』哲学館、明治34年(1901年)
- 『楊墨哲学』金港堂書籍、明治35年(1902年)
- 『王陽明詳伝』文明堂、明治36年(1903年)
- 『陽明学新論』榊原文盛堂、明治39年(1906年)
- 『支那倫理珠塵 問題回答』參天閣、明治41年(1908年)
- 『老荘哲学』榊原文盛堂、明治42年(1909年)
- 『支那哲学史』文盛堂、明治43年(1910年)
- 『陽明主義の修養』東亜堂書房、大正7年(1918年)
- 『藤樹先生』滋賀県高島郡教育会、大正10年(1921年)
- 『四言教論』洗心洞文庫、大正11年(1922年)
- 『陸象山』内外出版社、大正13年(1924年)
- 『三輪執斎』三輪繁蔵、大正13年(1924年)
- 『易学講話』弘道館、昭和元年(1926年)
- 『進講録』山本丈之助、昭和3年(1928年)
- 『陽明学講話』弘道館、昭和3年(1928年)
- 『陽明学叢話』博多成象堂、昭和7年(1932年)
- 『聊斎志異菁華』平野書店、昭和8年(1933年)
- 『宇宙論衡』東亜研究会、昭和8年(1933年)
- 『鼓腹集』洗心洞文庫、昭和10年(1935年) - 漢詩集
- 『天泉鼓腹集』洗心洞文庫、昭和10年(1935年) - 和歌集
- 『熊沢蕃山』熊沢光造、昭和12年(1937年)
- 『教育勅語謹解』教化振興会、昭和13年(1938年)
- 『教育勅語謹解 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語謹解』教化振興会、昭和14年(1939年)
- 『新修日本外史鈔』星野書店、昭和14年(1939年)
- 『皇道論』皇教会、昭和15年(1940年)
- 『菅公』皇教会、昭和15年(1940年)
- 『梅田雲浜』皇教会、昭和16年(1941年)
- 『頼山陽』皇教会、昭和16年(1941年)
- 『皇道聖訓』皇教会、昭和16年(1941年)
- 『大東亜戦争宣戦詔書謹解』皇教会、昭和17年(1942年)
- 『鼓腹集 第二集(和歌部)』皇教会、昭和17年(1942年)
- 『支那思想史』人生道場、昭和17年(1942年)
- 『水戸学』皇教会、昭和19年(1944年)
- 『敬神歌』天社土御門神道本庁、昭和24年(1949年)