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高橋ふみ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高橋 ふみ
1936年3月撮影
生誕 (1901-07-26) 1901年7月26日
日本の旗 日本石川県七塚村木津
死没 (1945-06-21) 1945年6月21日(43歳没)
日本の旗 日本石川県七塚村木津
時代 20世紀の哲学
地域 日本哲学
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高橋 ふみ(たかはし ふみ、1901年7月26日 - 1945年6月21日)は、日本哲学者・大学講師。

生涯

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1901年7月26日、石川県河北郡七塚村木津(現・かほく市木津)に生まれる。父親は羽二重工場を営み、七塚村の村長を務めるなど、裕福な名士だった。母親は西田幾多郎の妹で、ふみは西田の姪にあたる。

地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学する。高等女学校卒業後も、女子高等師範・女子医専のような実学・職業教育ではない学問を求め、花嫁修業を求める親を説得して、設立2年目の東京女子大学高等学部へ1920年4月に入学し、さらに、1926年4月に東北帝国大学法文学部に入学して哲学を学ぶ。

1929年3月に東北帝国大学を卒業してからは、2年間宮城県立女子師範学校の嘱託講師を務めたが、1931年に上京して、自由学園の国語教師になった。5年勤めた後、1936年3月に留学のためにドイツへ向かい、ベルリン大学フライブルク大学で学ぶ一方、共同通信特派員として同年開催のベルリンオリンピックの記事を送る。ハイデッガーのゼミに出席したり、西田幾太郎の『哲学の根本問題 続編』の一部を独訳して刊行する[1]が、この間に結核に罹患した。当時の医療技術では治癒は望めず、帰国・療養し、東京女子大学の講師となった[1]が、1945年6月7日に逝った伯父の西田幾多郎の後を追うように、2週間後の6月21日に43歳で亡くなった[2]

年譜

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[2]

論文

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  • 「Cohenの体系的美学より見たるチェホフの『伯父ワーニャ』」『小さき芽』、1930年
  • 「スピノザに於ける個物の認識に就て」 東北帝国大学文科会編『文化』第1巻5号、1934年

[2]

脚注

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  1. ^ a b 著名な法文学部出身者|東北大学 特設サイト 日本初・女子大生誕生の地”. www.tohoku.ac.jp. 東北大学. 2024年3月18日閲覧。
  2. ^ a b c 『西田幾多郎の姪 高橋ふみの生涯と思想 おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア』

参考文献

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  • 浅見洋『西田幾多郎の姪 高橋ふみの生涯と思想 おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア』ポラーノ出版、2017年3月
  • 浅見洋『未完の女性哲学者 高橋ふみ』石川県七塚町、1997年