高杉東一
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高杉 東一(たかすぎ とういち、元治元年(1864年)10月 - 大正2年(1913年)7月11日)は、明治時代の外交官。高杉晋作の長男。母は雅子。幼名は梅之進。名は春雄とも。
略歴
[編集]父・晋作は梅之進が4歳の時に死去。父の死後は萩から山口城下茶臼山(現・山口市白石)に移り住み、母と祖父母に育てられる。慶応3年(1867年)6月17日家督。明治4年(1871年)5月、祖父・小忠太の了承のもと、木戸孝允に伴われて東京を訪れ、木戸とその養子正二郎と梅之進、木戸の妻・松子と梅之進が写る写真2枚が木戸家に残されている。
明治10年(1877年)、梅之進の教育のため一家で上京した。商法講習所(一橋大学の前身)で学び、外交官となる。
明治15年に伊藤博文に従って洋行する。明治21年、『英和新国民大辞典』を編纂し、辻本尚書堂から出版。外交官として海外に駐在した。明治20年11月30日、谷氏から高杉氏に改姓。谷梅之進から高杉東一に改名する。
大正2年(1913年)、48歳で東京で死去。
新井荘兵衛三女・茂との間に暢子(大正2年没)・治子(明治30年没)・春太郎(昭和32年5月没)・晋二郎(明治44年没)の4人の子をもうけるが、3人は早世し、母の雅子は晩年の取材で、夫・子・孫と多くに先立たれた肉親の縁の薄さと寂しさを語っている。唯一残った春太郎の子に勝があり、晋作の子孫は現在まで続いている。