高木貞利
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文20年(1551年) |
死没 | 慶長8年8月24日(1603年9月29日) |
別名 | 彦六郎、権右衛門 |
戒名 | 祐念 |
墓所 | 岐阜県大垣市 |
主君 | 織田信長、信雄、徳川家康 |
氏族 | 美濃衆西高木家 |
父母 | 高木貞久、高木貞次娘 |
兄弟 |
貞家、貞利、貞秀、貞西、貞友、 田中喜兵衛室、今尾氏室 |
妻 | 西尾信光娘 |
子 | 貞盛、法泉寺恵済室 |
高木 貞利(たかぎ さだとし)は、安土桃山時代の武将。美濃衆西高木家3代。
生涯
[編集]美濃国今尾城主・高木貞久の子として誕生した。父と共に織田信長に従う。
天正3年(1575年)長篠の戦いでは氏家氏の隊に所属して武功があった。天正6年(1578年)播磨国神吉城攻めでは織田信忠軍に属して活躍する。天正10年(1582年)本能寺の変が起きると、徳川家康から明智光秀討伐の協力を要請されている。天正12年(1584年)羽柴秀吉より麾下に加わるように求められるがこれを拒否し、織田信雄に人質を差し出す。織田・徳川方に属して小牧・長久手の戦いを迎え、蟹江城合戦で活躍した。天正18年(1590年)信雄が改易されると甲斐国の加藤光泰の下に蟄居する。
文禄4年(1595年)家康に仕官し、上総国天羽郡・周准郡に1000石を与えられる。慶長5年(1600年)会津征伐では青山忠成隊に所属。石田三成挙兵の報が届くと東軍先鋒隊に附属し、井伊直政・本多忠勝を助けた。慶長6年(1601年)美濃石津郡2000石に加増され、多良郷を本拠に定めた。