高崎剛
表示
高崎 剛(たかさき たけし、1902年(明治35年)8月16日 - 1932年(昭和7年)9月8日)は、日本の洋画家。
1920年代のパリ・モンパルナス地区に400~500人の日本人洋画家が切磋琢磨の日々を送っていたエコール・ド・パリの中で、ひときわ異彩を放っていた。東京・大塚の実家に一人残った母親が今日の日本円で百万円程の仕送りを毎月続けた。画家たちのあいだで高崎の一夜大尽は語り草になっていた。伝説的なダゲール通りの半地下になった糸繰り工場だったアトリエでゴロワーズの煙をたなびかせながら、悠然と制作に没頭していた。江戸っ子・パリジャンの代表的な存在。藤田嗣治が将来を属目し、薩摩治郎八が注目した鬼才。近代都市のアトラクションを夭折したパリで余すところなく表現した。近年、日本の公立美術館に彼の作品が受け入れられた。
略歴
[編集]- 1902年 東京府小石川区大塚坂下町27番地(現・文京区大塚)に生まれる。
- 1924年 横浜から日本郵船の箱根丸で渡仏。高野三三男、岡田謙三、岡上りうが同行。
- 1925年 「巴里週報」第一号の発行人になる。編集人は石黒敬七。
- 1926年 第2回在巴里日本人美術家展に出品。
- 1927年 日本美術展覧会に出品。
- 1928年 リューダゲール34番地階下1階のアトリエに横手貞美と共に住む。この年以降各展覧会に出品。
- 1929年 アンリ・ブロカが主宰した挿画入り月刊誌「パリ-モンパルナス」4月号に藤田の周辺画家についての記述がありその筆頭に、高崎剛は生粋の江戸っ子であり、小柄、腕白、素晴らしい画家で大酒飲みである。
- 1932年 パリ16区の薩摩治郎八の住居で亡くなる。日本大使館へ高野三三男が死亡届けを提出、葬儀委員長は薩摩治郎八。享年30。
主な作品
[編集]現在その作品存在が確認されている美術館
作品の特徴
[編集]- キャンバスに金箔を張りその上に特徴的な暖かな茶色の透明感のある油彩を溶き油でかなり溶いて使用。題材は曲芸、サーカス、雪、花火、夜、人工的な都市の光(イルミネーション等)。額はオリジナル、当時モンパルナスで複数の日本人が額を制作していたことを彷彿とさせる。
参考文献 単行書(展覧会図録を含む)
[編集]- ACR Edition,1987 Sylvie et Dominique Buisson, Léonard-Tsuguharu Foujita; sa vie,son oeuvre,volI
- 目黒区美術館「高野三三男アール・デコのパリ、モダン東京」1997年11月
- 徳島県立近代美術館「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」1998年10月
- 東京都庭園美術館「アール・デコと東洋 1920-30年代・パリを夢みた時代」1999年1月
- 名古屋市美術館「巴里憧憬エコール・ド・パリと日本の画家たち」2006年11月
- 實業之日本社 藤田嗣治「巴里の横顔(昭和4年)」
- (株)雪華社 三宅正太郎「パリ留学時代 美術家の青春遍歴(1966年)」
- 中公文庫 金子光晴「ねむれ巴里」
- バロン・サツマの会 薩摩治郎八「せ・し・ぼん(1984年1月10日)」
- 目黒区美術館「藤田嗣治展 人と動物」所蔵作品より 出品目録 2011年6月4日~7月14日
逐次刊行物
[編集]- みずゑ二科號「二科評 福澤一郎」1931年10月
- みずゑ二科號「二科展所感-入選畫について-」1932年10月
- 國際寫眞情報 第十號 秋の美術展號前編 1931年
- 外務省外交史料館所蔵文書「在仏特命全権大使長岡春一公信第618号(1932年10月26日)」
- 國際寫眞情報 第十一號 秋の美術展號後編 1932年
- 國際寫眞情報 第十二巻 秋の美術展號後編 1933年
- (社)二科会 日本経済新聞社版「二科七十年史1914-1943(1985年8月)」瀧悌三
- 小野絵麻先生を偲ぶ会「二人の友」1997年8月12日 小野絵麻 随筆集(山陽新聞一日一題・他)
- 死亡証明書「有限会社フランス画廊宛 パリ16区区役所 (1998年11月10日発行)」
- 産経新聞 夕刊「20年代・パリ・高崎剛 知られざる画家のこと(1999年2月20日)」海野弘
- 産経新聞 夕刊「幻の藤田嗣治プラハで発見 美術史上貴重高崎剛の作品も(2001年6月8日)」
- 月刊あいだ129号 2006年9月 «貴賓席»よみがえる記憶のなかの絵-わが家にあった高崎剛の作品のこと 小野絵里
- 月刊美術 2008年9月号 眞桐耕一の「巴里の屋根の下で」江戸っ子・パリジャン高崎剛と「サーカス」
- 東京新聞 川崎版 朝刊 Kばん「忘れられた江戸っ子パリジャン」宮前区有馬 眞桐耕一さん(2013年4月20日土曜日)