高島祐庵
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高島 祐庵(たかしま ゆうあん、文政4年(1821年) - 慶応4年閏4月18日(1868年6月8日))は、幕末の漢方医。幕府奥医師。諱は久貫。
経歴
[編集]高島家は代々幕府に仕えた医家で、祐庵は弘化2年(1845年)に家を継ぐ。安政から文久にかけて医学館で講書を行い、褒賞を得ている[要出典]。
将軍徳川家茂が大坂城で病んだとの報を受け、慶応2年(1866年)7月16日、大膳亮弘玄院、多紀安琢(養春院)、遠田澄庵、浅田宗伯らとともに大坂へ急派された。慶応4年(1868年)没。四谷法恩寺に葬られた。
実弟の久也(1832年-1881年)[2]を養子にとって高島祐啓としている。祐啓は幕府表方の漢方医として医学の専門書[3]を執筆した。また文久遣欧使節に同行した人物として知られ[4]、絵入り[5]の日誌『欧西紀行』を残した[7]。
参考文献
[編集]- 君塚進「<研究ノート>『柴田剛中欧行日載』より」『史林』第44巻第6号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1961年11月、914-915頁、CRID 1390853649778851840、doi:10.14989/shirin_44_909、hdl:2433/249607、ISSN 0386-9369。
- 高しま烈『歐西紀行』 1巻、慶応3年(1867年) 。doi:10.11501/2557348、国立国会図書館デジタルライブラリーにてインターネット公開。
- 高島祐啓『欧西紀行. 巻之2-4』 。2022年4月20日閲覧。早稲田大学図書館収蔵、インターネット公開。和装、色刷あり、巻之4の19丁以降は欠落。勝俣銓吉郎の旧蔵書。
脚注
[編集]- ^ 高島祐庵 - NDL ONLINE
- ^ 名前を烈のちに久也といい、通称祐啓、また恒斎と号した[1]。
- ^ 高島祐啓、岡田昌春「躋寿館(せいじゅかん)医籍備考」『必読・漢方医学余璧叢書』長谷川弥人(監修・解説)、第10巻、1990年、大阪 : オリエント出版社。OCLC 840674612。東京大学附属図書館所蔵『躋寿館医籍備考』(鶚軒文庫より明治10年、丹羽元徳刊)の複製。漢方医学。
- ^ 君塚 1961, pp. 914-915頁(84-85頁)
- ^ 高島祐啓(烈)が私家版として遺した『欧西紀行』掲載の挿絵は、遣欧使節として往路に乗ったオーディン号やプロイセン皇帝肖像ほか、ウィキメディア・コモンズで閲覧できる。
- ^ 『歐西紀行』誠求堂、1867年(慶応3年)、全4巻。
- ^ 『歐西紀行』電子版は第1巻が国会図書館に、第2-4巻前半、後半[6]で公開。