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高太文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高 太文(コ・テムン、: 고태문Ko T'aemun / Go Taemun、1920年1月10日-)は在日朝鮮人柔道家プロレスラー。一時、北朝鮮の最高指導者金正日の愛人「コ・ヨンヒ(高容姫)」ではないかといわれた高春行(コ・チュンヘン、: 고춘행、1950年3月11日-)の父。日本での通名は高山州弘、リングネームは大同山又道

人物略歴

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日本では柔道家((講道館六段とされる)として知られたが、後に大阪でプロレスラーとなった。日本のプロレス草創期、1956年(昭和31年)2月に新団体「東亜プロレスリング協会」を旗揚げしたことでプロレス史に名を残した。

大同山は当初より朝鮮民族であることを自ら誇っていた[注釈 1]。しかし、日本タイトルを賭けて行われた同年10月15日から10月24日のウエート別統一日本選手権大会において芳しい成績を収められなかった[注釈 2]。この試合で戦績を残せたのは力道山率いる日本プロレスだけで、敗退した他団体(東亜プロレス含む)は翌年までに活動停止し、やがて消滅してしまう。彼は自団体と命運を共にし、プロレスそのものから引退した。

1961年5月、家族とともに北朝鮮に帰還。北朝鮮に渡ってからは柔道の指導者となり、同国の柔道の発展に力を尽くした。

子女

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長男高勝恩コ・スンオン(北朝鮮国家体育委員会柔道指導員)、長女高春行コ・チュンヘン、次男高勝方コ・スンバン平壌演劇映画大学映画技術教員)、三男高勝海コ・スンヘ、次女高淑煕コ・スクヒの5人の子がいる。

長女高春行は1950年3月11日生まれで、金正日の内縁の妻高容姫は1952年6月26日生まれである。2人は年齢が近く、ともに大阪出身で、1961年頃に北朝鮮に渡った在日朝鮮人の子女であったうえ、平壌芸術大学へ通っており、さらに高春行(春幸)が手記『柔道愛国者』(2006年)のなかで「金正日との出会い」について綴っているなど経歴が酷似していた[3]。そのため、彼女が高容姫だと誤認されたのである[3]

毎日新聞編集委員の鈴木琢磨は、『金正日と高英姫』(2005年)のなかで「高春行こそ高英姫」と主張していた[4]。しかし、ジャーナリストの高英起による「高容姫=高ヨンジャ説」が発表されると「特集ワイド:北朝鮮後継者・金正恩氏の母の軌跡朝鮮画報に定説覆す情報」(『毎日新聞』夕刊2011年6月23日号記事)のなかで「高ヨンジャこそ高英姫」だとして自説を撤回した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 地元大阪府立体育会館で同年7月9日に開催された木村政彦らとの団体対抗戦(敗退)、同所で9月26日に開催されたユセフ・トルコら相手のタッグマッチ(勝利)などが東亜プロレスが主催した大きな試合である。団体対抗戦での木村政彦戦は最後が反則決着となっている。通常なら当然シナリオ通りの決着なのであるが、本戦が単なる八百長なのかそれとも(このころの柔道出のレスラーの何人かがやった試合のように)シナリオの再現に失敗した八百長崩れなのかは検証が必要である。
  2. ^ 大同山本人はジュニアヘビー級で出場して3位。準決勝まで進むも吉村道明に敗れ、3位決定戦で阿部脩(修)(のち大映俳優、国際プロレスレフェリー)に勝った[1][2]

出典

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参考文献 

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  • 鈴木琢磨『金正日と高英姫 ― 平壌と大阪を結ぶ「隠された血脈」 ―』イースト・プレス、2005年4月。ISBN 978-4872575590 
  • 李相哲『金正日と金正恩の正体』文藝春秋〈文春新書〉、2011年2月。ISBN 978-4-16-660797-6 
  • コ・チュンヘン『柔道愛国者(高太文の伝記)』2006年平壌

関連項目

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