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高堂国典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高堂黒天から転送)
こうどう くにのり
高堂 国典
高堂 国典
ゴジラ』(1954年)
本名 谷川 佐市郎たにがわ さいちろう
別名義 高堂 黒天たかどう こくてん
生年月日 (1887-01-29) 1887年1月29日
没年月日 (1960-01-22) 1960年1月22日(72歳没)
出生地 日本の旗 日本兵庫県高砂市
職業 俳優
ジャンル 新劇新派劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1901年 - 1959年
主な作品
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高堂 国典こうどう くにのり[1]1887年(明治20年)1月29日[2][1][3][注釈 1] - 1960年(昭和35年)1月22日[1][3])は、日本俳優。本名は谷川 佐市郎たにがわ さいちろう[1]。一時は高堂 黒天の芸名で活動していた。通り名は「こくてん」[2][5][6]

戦前は帝国キネマ市川右太衛門プロダクションで活躍し、戦中から戦後にかけて東宝に出演した。老け役として個性を発揮し、様々な作品に脇役で活躍。黒澤明作品の常連の一人でもある。

来歴

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兵庫県[1]高砂市に生まれる[2][注釈 2]

関西学院中学部中退後の1901年(明治34年)新派村田正雄の門下に入り、大阪横井座で初舞台を踏んだ後地方巡業で各地を回る[2]

1923年(大正12年)帝国キネマ小阪撮影所現代劇部に入社後本格的に映画俳優として活動を始め、『呪いの船』『復讐鬼』『星は乱れ飛ぶ』といった作品に出演する[1]

1926年(大正15年)帝国キネマの内紛からアシヤ映画製作所聯合映畫藝術家協會に所属した後、同年古海卓二監督の第一線映画聯盟に加わり『恐しき邂逅』などに出演。

1927年(昭和2年)運動終了後に市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所に入り主要メンバーとして活動、『笑ふな金平 後篇』や『一殺多生剣』などに出演、また『旗本退屈男』シリーズの常連だった。松竹下加茂撮影所製作の『雪之丞変化』の土部三斎役は敵役としての代表作とされる[8]

1936年(昭和11年)に松竹下賀茂撮影所へ移籍。

1939年(昭和14年)東宝に移籍[1]、このころ数作に高堂 黒天名義で出演している。『姿三四郎』(1943年)以降、黒澤明監督作品の常連となる[1]。戦後も東宝を中心に多くの作品に出演。

1960年(昭和35年)1月22日死去。72歳没。遺作は1959年の『暗黒街の顔役』[1]

人物

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撮影所では「こくてんさん」と呼ばれたが、土屋嘉男によると、こう呼ばれるたびにすかさず「くにのり!」と怒鳴り返していた。土屋は高堂に「養子になってくれないか」と頼まれたことがあったといい[5]、困った土屋が黒澤明に相談すると、「大事な息子を戦死させていて、その面影を土屋に求めているからではないか」ということだった。鮎釣りが好きで、いつも多摩川に一人で釣りに出かけていて、一度増水した川に飲まれて九死に一生を得たことがあったといい、土屋はこれを聞いて、「威勢のいい高堂さんの淋しい一面を知った」と語っている[要出典]

オーバーアクションに定評があり、セリフもなく歩くだけで体を震わせ「ウーム、ムニャン、ムニャン」と唸るため、黒澤は「高堂さん、カメラが壊れます」と何度も叫んだという[5]。土屋は藤原釜足小杉義男左卜全と並べて高堂を、「いずれ劣らぬ個性ジイサンたちで、今後絶対に現れそうにない映画界きっての貴重な方々であり、学生時代から大好きな人達であった」と評している[9][信頼性要検証]

1936年ごろ、京都で「酒は百害あって一利なく、時間の浪費、健康の不利」と説いて、同志五十余を集め、華麗な結成大会を開き、「日本映画人禁酒聯盟」という団体を結成。会長は高堂、副会長は上田吉二郎、会員もそうそうたる面々とあって、京都の映画人のあいだで話が賑わった。が、それは酒の尽きない映画人の付き合いのなか、「いつまで続くだろう」ということで賑わったのであって、この話題を肴に酒を飲んだ者があったほどだった。結局、この「禁酒聯盟」は三カ月を待たずに解散してしまった。解散式では高堂会長はじめ会員が盛大に飲んで暴れたといい、この会はもともと解散式をあてこんで始めたのではないかと、口の悪い者たちが噂したという[10][信頼性要検証]

東宝の女優であった記平佳枝が出会ったころの高堂は高齢で耳が遠かったため声が大きくなりがちであったといい、記平は新宿で高堂と出会うと大声で名前を呼ばれて恥ずかしい思いをしたこともあったと述懐している[11]。同じく東宝の女優であった寺沢弘子は、『ゴジラ』で共演した際の高堂は漁師になりきっていたといい、撮影の合間や宿で会話が盛り上がったが、大先輩の高堂と親しく口を聞いていたことを先輩女優に嗜められたという[12]

主な出演作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 一説には、明治21年(1888年1月17日生まれとしている[2][4]
  2. ^ 一説には奈良県奈良市油阪町出身[2][7]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 初代ゴジラ研究読本 2014, pp. 34–35, 「ゴジラの登場人物」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 東宝特撮映画全史 1983, p. 529, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  3. ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「1月29日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、34頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  4. ^ 『日本映画年鑑』[要文献特定詳細情報]
  5. ^ a b c 「土屋嘉男ロングインタビュー」『キングコング対ゴジラ/地球防衛軍』東宝出版事業室〈東宝SF特撮映画シリーズ VOL.5〉、1986年3月1日、152頁。ISBN 4-924609-16-1 
  6. ^ a b c d ゴジラ大百科 1993, p. 119, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  7. ^ キネマ旬報社 編『日本映画人名事典』 男優篇 上巻、キネマ旬報社、1996年10月25日、593頁。ISBN 4-87376-188-3 
  8. ^ 盛内政志『映画俳優事典 戦前日本篇』未來社、1994年、[要ページ番号]頁。ISBN 4-624-71065-7 
  9. ^ 『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』(土屋嘉男、新潮社)
  10. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  11. ^ 初代ゴジラ研究読本 2014, p. 115, 「オール初代ゴジラ俳優大図鑑」
  12. ^ 初代ゴジラ研究読本 2014, pp. 92–94, 取材・文 友井健人「俳優インタビュー 寺沢弘子」

参考文献

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外部リンク

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