高倉盛隆
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明3年(1783年) |
死没 | 文政9年4月18日(1826年5月24日) |
別名 | 盛正、相模 |
墓所 | 福島県伊達郡桑折町の大安寺 |
主君 | 津軽寧親→信順 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 二本松氏流高倉氏 |
父母 | 高倉盛之 |
子 | 盛儀 |
高倉 盛隆(たかくら もりたか)は、江戸時代後期の弘前藩家老。
略歴
[編集]天明3年(1783年)、弘前藩家老・高倉盛之の嫡男として誕生。
高倉家は初代高倉盛次が津軽氏に仕えて以来、代々家老を務めて来た名家で、盛隆も家老となった。しかし、主君である津軽信順は暗愚であり、放蕩三昧であった。文政9年(1826年)、江戸参勤の際、しばしばの諫言も受けいられず、心を痛め、共にやってきた家老津軽貞栄に切腹して諌める由を伝えた。そして、同年4月18日、仙台藩領桑折の宿に病気と偽って留まり、切腹した。
辞世は「消える燈の名残りや暁のほととぎす」。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社