高倉為盛
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長11年(1606年) |
死没 | 天和2年(1682年) |
改名 | 為盛→休能(号) |
別名 | 盛成、五兵衛、主計 |
主君 | 津軽信義→信政 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 鍋倉氏→二本松氏流高倉氏 |
父母 |
鍋倉秀道、高倉盛次娘 高倉盛次 |
兄弟 | 男子、為盛 |
子 | 盛保 |
高倉 為盛(たかくら ためもり)は、江戸時代前期の弘前藩士。
略歴
[編集]最上氏家臣・鍋倉秀道の次男として誕生。父は最上家が改易となった後、佐竹氏に仕え、為盛は母方の祖父・高倉盛次の養子となって、津軽氏に仕えた。
養父・盛次が江戸で不調法があり、共に浪人となったが、寛永17年(1640年)津軽氏に300石、児小姓頭として仕官した。慶安2年(1649年)、200石加増で500石となる。そして、家老となり、さらに300石の加増で800石となった。明暦2年(1656年)、津軽信義の死による津軽信英の黒石分地を円満に解決すると、寛文4年(1664年)、隠居した。
隠居の際に剃髪し、休能を称し、隠居料300石を食んだ。隠居後も武道を忘れず、主君・津軽信政を茶室に招いた際、天井を槍の柄を持って、縁とし、信政を感動させたという。天和2年(1682年)、江戸で死去した。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社