高保寧
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高 保寧(こう ほねい、生年不詳 - 583年)は、中国の北斉の軍人。高宝寧とも書かれる。本貫は代郡[1][2]。
経歴
[編集]武平末年、北斉の営州刺史となり、黄龍に駐屯した。北周の軍が北斉の都の鄴に迫ると、幽州行台の潘子晃が黄龍の兵を召集したので、保寧は契丹・靺鞨の1万騎あまりを率いて救援に向かった。北平にいたって、潘子晃が薊をすでに出発したと知り、また鄴都が陥落したと聞いて、営州に帰還した。北周の武帝が招諭の使者を派遣してきたが、その勅書を受け取らなかった。范陽王高紹義が突厥の保護の下で、北斉の皇帝を称すると、保寧は丞相に任ぜられた。盧昌期が范陽城に拠って起兵すると、保寧は高紹義の兵数万騎を率いて救援に向かった。潞河にいたって、北周の将軍の宇文神挙が范陽を落としたことを知ると、保寧は黄龍に帰り、北周に仕えようとはしなかった[3][4]。
開皇2年(582年)5月、保寧は隋の平州に侵攻した[5][6]。開皇3年(583年)4月、隋の行軍総管の陰寿に黄龍で敗れた[7][8]。保寧は城を棄てて磧北に逃れた。陰寿が撤退し、開府の成道昂が黄龍に残ると、保寧は子の高僧伽に黄龍城下を略奪して去らせた。まもなく保寧は契丹や靺鞨の兵を率いて黄龍に進攻し、成道昂を苦しめた。陰寿は保寧の部下の趙世模や王威を調略して降した。保寧は契丹に逃れ、部下の趙修羅に殺害された[9]。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『隋書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00316-8。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。