阿史那骨咄禄
阿史那 骨咄禄 Ašina Qutluγ | |
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東突厥第二帝国初代可汗 | |
在位 | 682年 - 692年 |
別号 |
イルティリシュ・カガン 頡跌利施可汗 |
全名 |
阿史那 骨咄禄 (アシナ・クトゥルグ) |
出生 |
不明 |
死去 |
692年 |
配偶者 | イルビルゲ・カトゥン |
子女 |
毘伽可汗 闕特勤 |
家名 | 阿史那氏 |
父親 | エティミシュ・ベグ |
阿史那 骨咄禄(呉音:あしな こちとちろく、漢音:あしだ こつとつろく、拼音:Āshǐnà Gŭduōlù、Ašina Qutluγ、? - 692年)は、東突厥の第二可汗国期の初代可汗。
頡利可汗の族人。一時、唐によって滅ぼされた東突厥を復興させる(俗に突厥第二可汗国、突厥第二帝国と呼ばれる)。彼の事績は『オルホン碑文』にも刻まれており、「クトゥルグ」(Qutluγ:“幸得たる者”の意)または「イルティリシュ・カガン」(古テュルク語: - İltiriš qaγan:“国家を糾合した可汗”の意)の名で知られる。史書によっては「骨吐禄」、「骨篤禄」[1]とも表記されている。
生涯
[編集]阿史那骨咄禄の祖父は、単于右雲中都督である舎利元英の配下首領で、代々吐屯啜(トゥドゥン・チュル:官名)を襲名してきた人物であった。
永隆2年(681年)、阿史那伏念が敗北すると、阿史那骨咄禄は残党を糾合して総材山に立てこもった。
永淳元年(682年)、彼らは5千余人で群盗をなし、九姓鉄勒(トクズ・オグズ)を抄掠し、多くの羊馬を得て次第に強盛となっていった。そして、阿史那骨咄禄は自ら立って可汗(イルティリシュ・カガン)となり、その弟の阿史那默啜を殺(シャド:官名)[2]、阿史那咄悉匐を葉護(ヤブグ:官名)[3]とした。12月、阿史那骨咄禄は黒沙城に拠り、并州の北境で侵入略奪を行った。この時、単于長史の王本立のもとにいた暾欲谷(阿史徳元珍)が帰順してきたので、阿史那骨咄禄は彼を阿波達干(アパタルカン:官名)に任命した。
永淳2年(683年)2月、突厥軍は定州を寇し、刺史の霍王李元軌を破る。3月、阿史那骨咄禄と暾欲谷は単于都護府を包囲し、司馬の張行師を殺す。5月、阿史那骨咄禄らは蔚州に進寇し、刺史の李思倹を殺害。豊州都督の崔智辯は朝那山を出てこれを撃つが、逆に殺される。6月、さらに突厥軍は嵐州を寇し、刺史の王徳茂を殺した[4]。11月、右武衛将軍の程務挺は単于道安撫大使となり、突厥を征伐する。
文明元年(684年)、阿史那骨咄禄は朔州を寇略し、人吏を殺掠した。唐の武則天は詔で左武威衛大将軍の程務挺を単于道安撫大使とし、これに備える。
垂拱2年(686年)、阿史那骨咄禄はまた朔州・代州などの州を寇略した。唐は左玉鈐衛中郎将の淳于処平を陽曲道総管とし、副将中郎将の蒲英節とともに救援に赴かせ、忻州で突厥軍と戦ったが大敗し、死者は5千余人にのぼった。
垂拱3年(687年)、阿史那骨咄禄と暾欲谷がまた昌平を寇したので、唐は詔で左鷹揚衛大将軍の黒歯常之にこれを撃たせた。8月、阿史那骨咄禄がまた朔州を寇したので、黒歯常之は燕然道大総管となり、突厥軍を黄花堆で撃ち、これを大破した。突厥軍は40数里も奔走し、磧北に散走した。また、右監門衛中郎将の爨宝璧は精兵13000人を率いて塞を出て追撃したが、逆に阿史那骨咄禄に敗れ、唐軍はほぼ全滅し、爨宝璧は軽騎で遁帰した。このことに武則天は大いに怒り、骨咄禄を改めて不卒禄と呼んだ。
後に、暾欲谷は兵を率いて突騎施(テュルギシュ)部を討つが、戦死した。阿史那骨咄禄は天授(690年 - 692年)の初めに病死した。その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の阿史那默啜が後を継いだ。
妻子
[編集]関連遺跡
[編集]- オルホン碑文:事績が刻まれている。
- ノムゴン碑文:モンゴルアルハンガイ県ハシャート郡にあるノムゴン遺跡で2019年から国際テュルクアカデミーとモンゴル科学アカデミー考古学研究所が共同発掘調査を実施し、関連する碑文の出土が報告された[5][6]。
参考資料
[編集]脚注
[編集]- ^ 『旧唐書』本紀第五
- ^ 『オルホン碑文』には「タルドゥシュ部族(Tarduš budun:右廂)のシャド(Šad)」とある。
- ^ 『オルホン碑文』には「テリス部族(Tölis budun:左廂)のヤブグ(Yabγu)」とある。
- ^ 『新唐書』本紀第三では永淳元年(682年)6月甲子となっている。
- ^ The Asia today
- ^ 「クトルグ可汗の遺跡の複合施設と碑石(国際テュルク・アカデミー・モンゴル科学アカデミー考古学研究所“ノムゴン2019、2022”共同調査隊による予備的報告)」『金大考古』82, 2023年, 65-71頁.