コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

阿史那骨咄禄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
骨吐禄から転送)
阿史那 骨咄禄
Ašina Qutluγ
東突厥第二帝国初代可汗
在位 682年 - 692年
別号 イルティリシュ・カガン

頡跌利施可汗

全名 阿史那 骨咄禄
(アシナ・クトゥルグ)
出生 不明
死去 692年
配偶者 イルビルゲ・カトゥン
子女 毘伽可汗
闕特勤
家名 阿史那氏
父親 エティミシュ・ベグ
テンプレートを表示

阿史那 骨咄禄呉音:あしな こちとちろく、漢音:あしだ こつとつろく、拼音:Āshǐnà Gŭduōlù、Ašina Qutluγ、? - 692年)は、東突厥の第二可汗国期の初代可汗

頡利可汗の族人。一時、によって滅ぼされた東突厥を復興させる(俗に突厥第二可汗国突厥第二帝国と呼ばれる)。彼の事績は『オルホン碑文』にも刻まれており、「クトゥルグ」(Qutluγ:“幸得たる者”の意)または「イルティリシュ・カガン」(古テュルク語: - İltiriš qaγan:“国家を糾合した可汗”の意)の名で知られる。史書によっては「骨吐禄」、「骨篤禄」[1]とも表記されている。

生涯

[編集]

阿史那骨咄禄の祖父は、単于右雲中都督である舎利元英の配下首領で、代々吐屯啜(トゥドゥン・チュル:官名)を襲名してきた人物であった。

永隆2年(681年)、阿史那伏念が敗北すると、阿史那骨咄禄は残党を糾合して総材山に立てこもった。

永淳元年(682年)、彼らは5千余人で群盗をなし、九姓鉄勒(トクズ・オグズ)を抄掠し、多くの羊馬を得て次第に強盛となっていった。そして、阿史那骨咄禄は自ら立って可汗(イルティリシュ・カガン)となり、その弟の阿史那默啜を殺(シャド:官名)[2]阿史那咄悉匐を葉護(ヤブグ:官名)[3]とした。12月、阿史那骨咄禄は黒沙城に拠り、并州の北境で侵入略奪を行った。この時、単于長史の王本立のもとにいた暾欲谷英語版阿史徳元珍)が帰順してきたので、阿史那骨咄禄は彼を阿波達干(アパタルカン:官名)に任命した。

永淳2年(683年)2月、突厥軍は定州を寇し、刺史の霍王李元軌を破る。3月、阿史那骨咄禄と暾欲谷は単于都護府を包囲し、司馬の張行師を殺す。5月、阿史那骨咄禄らは蔚州に進寇し、刺史の李思倹を殺害。豊州都督崔智辯は朝那山を出てこれを撃つが、逆に殺される。6月、さらに突厥軍は嵐州を寇し、刺史の王徳茂を殺した[4]。11月、右武衛将軍の程務挺は単于道安撫大使となり、突厥を征伐する。

文明元年(684年)、阿史那骨咄禄は朔州を寇略し、人吏を殺掠した。唐の武則天は詔で左武威衛大将軍の程務挺を単于道安撫大使とし、これに備える。

垂拱2年(686年)、阿史那骨咄禄はまた朔州・代州などの州を寇略した。唐は左玉鈐衛中郎将の淳于処平を陽曲道総管とし、副将中郎将の蒲英節とともに救援に赴かせ、忻州で突厥軍と戦ったが大敗し、死者は5千余人にのぼった。

垂拱3年(687年)、阿史那骨咄禄と暾欲谷がまた昌平を寇したので、唐は詔で左鷹揚衛大将軍の黒歯常之にこれを撃たせた。8月、阿史那骨咄禄がまた朔州を寇したので、黒歯常之は燕然道大総管となり、突厥軍を黄花堆で撃ち、これを大破した。突厥軍は40数里も奔走し、磧北に散走した。また、右監門衛中郎将の爨宝璧は精兵13000人を率いて塞を出て追撃したが、逆に阿史那骨咄禄に敗れ、唐軍はほぼ全滅し、爨宝璧は軽騎で遁帰した。このことに武則天は大いに怒り、骨咄禄を改めて不卒禄と呼んだ。

後に、暾欲谷は兵を率いて突騎施(テュルギシュ)部を討つが、戦死した。阿史那骨咄禄は天授690年 - 692年)の初めに病死した。その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の阿史那默啜が後を継いだ。

妻子

[編集]
  • 可賀敦(カガトゥン:皇后)
    • イルビルゲ・カトゥン

関連遺跡

[編集]

参考資料

[編集]
  • 旧唐書』(本紀第五、列伝第一百四十四上)
  • 新唐書』(本紀第三、本紀第六、列伝一百四十上)
  • 『古代トルコ民族史研究Ⅰ』護雅夫著、山川出版社 1967年

脚注

[編集]
  1. ^ 『旧唐書』本紀第五
  2. ^ 『オルホン碑文』には「タルドゥシュ部族(Tarduš budun:右廂)のシャド(Šad)」とある。
  3. ^ 『オルホン碑文』には「テリス部族(Tölis budun:左廂)のヤブグ(Yabγu)」とある。
  4. ^ 『新唐書』本紀第三では永淳元年(682年)6月甲子となっている。
  5. ^ The Asia today
  6. ^ 「クトルグ可汗の遺跡の複合施設と碑石(国際テュルク・アカデミー・モンゴル科学アカデミー考古学研究所“ノムゴン2019、2022”共同調査隊による予備的報告)」『金大考古』82, 2023年, 65-71頁.

関連項目

[編集]