騎兵第2旅団 (日本軍)
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(騎兵第16連隊から転送)
騎兵第2旅団 | |
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習志野騎兵旅団全景。一番手前は陸軍病院、隣のブロックが騎兵13・14連隊、街道を挟んだ奥が騎兵15・16連隊。 | |
創設 | 1902年(明治35年) |
廃止 | 1941年(昭和16年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 旅団 |
兵科 | 騎兵 |
所在地 | 日本-満州-日本 |
編成地 | 習志野 |
最終位置 | 習志野 |
戦歴 | 日露戦争 |
騎兵第2旅団 (きへいだいにりょだん)は、現在の千葉県習志野市泉町にかつてあった騎兵部隊である。「騎兵の町・軍郷習志野」を象徴する存在の1つである。
概要
[編集]騎兵第2旅団司令部と騎兵第15連隊・16連隊で構成されている。平時は第1師団に属し、騎兵第1連隊を隷下に加えられていた。その後、1932年12月より、騎兵16連隊の敷地は陸軍習志野学校の敷地として編入された。「騎兵の町・軍郷習志野」を象徴する存在の一つ。戦後は陸軍習志野学校跡地は千葉大学腐敗研究所として一時使用され、現在は空地または住宅になっている。騎兵15連隊跡地は東邦大学付属東邦高等学校や住宅になっている。八幡公園には、1976年に建立された『習志野騎兵旅団発祥の地』の碑がある。
沿革
[編集]- 1899年(明治32年) 習志野の高津廠舎を仮兵舎として発足。
- 1901年(明治34年)
- 1902年(明治35年) 大久保にて編成完了。
- 4月4日 旅団司令部が津田沼村大字大久保新田の新築舎に移転[3]。
- 1920年(大正8年) 機関銃中隊が設置される。
- 1923年(大正11年) 軍備整理で両連隊は1個中隊を削減され各4個中隊となる。旅団は満州事変にも支那事変(日中戦争)にも出動しなかったので、戦時編制による機関銃隊・騎砲兵隊の編入はない。
- 1935年(昭和10年) 旅団内に騎砲兵大隊が設置され、昭和11年にはそれが騎砲兵連隊となる。
- 1936年(昭和11年) 両連隊に各機関銃中隊が設置される。
- 1941年(昭和16年) 騎兵が全面的に機甲兵となるに及び他の旅団に先だって解隊。
歴代騎兵第2旅団長(少将)
[編集]- 第 1代 閑院宮載仁親王:1901年4月2日 - 1904年9月21日(日露戦争時)
- 第 2代 田村久井:1904年9月21日(日露戦争時) - 1909年9月15日
- 第 3代 杉浦藤三郎:1909年9月15日 - 1912年4月26日[4]
- 第 4代 吉田平太郎:1912年4月26日 - 1913年8月22日[5]
- 第 5代 内田広徳:1913年8月22日 - 1915年8月10日
- 第 6代 永山元彦:1915年8月10日 - 1918年7月24日[6]
- 第 7代 岡本功:1918年7月24日 - 1922年8月15日[7]
- 第 8代 三好一:1922年8月15日 - 1923年10月10日[8]
- 第 9代 福田義彌:1923年10月10日 - 1925年5月1日[9]
- 第10代 佐藤栄樹:1925年5月25日 - 1927年12月16日[10]
- 第11代 原田宗一郎:1927年12月16日 - 1930年8月1日[11]
- 第12代 飯島昌蔵:1930年8月1日 - 1931年8月1日[12]
- 第13代 高波祐治:1931年8月1日 - 1932年8月8日[13]
- 第14代 原常成:1932年8月8日 - 1933年3月18日[14]
- 第15代 蓮沼蕃:1933年3月18日 - 1934年8月1日[15]
- 第16代 笠井平十郎:1934年8月1日 - 1935年8月1日[16]
- 第17代 山岡潔:1935年8月1日 - 1936年3月7日[17]
- 第18代 内藤正一:1936年3月7日 - 1937年3月1日[18]
- 第19代 若松晴司:1937年3月1日 - 1938年7月15日[19]
- 第20代 高橋重三:1938年7月15日 - 1940年3月9日[20]
- 第21代 栗林忠道:1940年3月9日 - 1940年12月2日[21]
- 第22代 賀陽宮恒憲王:1940年3月9日 - 1941年7月1日[22]
- 第23代 藤田茂 大佐:1941年7月1日 - 1941年12月5日[23]
歴代連隊長
[編集]第15連隊
[編集]- 永山元彦 騎兵大佐:1909年9月15日 - 1910年12月23日
- 平城盛次 騎兵中佐:1910年12月23日 - 1912年12月26日
- 中島操 騎兵大佐:1912年12月26日 - 1914年8月22日
- 中山民三郎 騎兵大佐:1914年9月2日 - 1916年5月2日
- 吉橋徳三郎 騎兵大佐:1916年5月2日 - 1916年8月18日
- 大関釥 騎兵中佐:1916年8月18日 - 1918年7月24日[24]
- 服部真彦 騎兵中佐:1918年7月24日[24] - 1920年8月10日[25]
- 丸尾順吉郎 騎兵中佐:1920年8月10日[25] -
- 和田由恭 騎兵大佐:1932年8月8日[26] -
- 秋山久三 騎兵大佐:1939年8月1日 - 1940年3月9日[27]
- 藤田茂 騎兵大佐:1940年3月9日 - 1941年7月1日[23]
第16連隊
[編集]- 森岡守成 騎兵大佐:1911年11月22日 - 1912年6月8日
- 平佐眷弼 騎兵中佐:1912年6月8日 - 1913年8月22日
- 田中国重 騎兵大佐:1913年8月22日 - 1914年8月22日
- 奥野幸吉 騎兵中佐:1914年8月22日 -
- 河野恒吉 騎兵大佐:1919年7月25日 -
- 鈴木文次郎 騎兵大佐:1921年7月20日[28] -
- 武藤一彦 騎兵中佐:1922年8月15日[29] - 1924年12月15日[30]
- 茂木謙之助 騎兵中佐:1924年12月15日[30] -
- 吉田悳 騎兵大佐:1932年2月29日 - 1934年3月5日[31]
- 若松晴司 騎兵大佐:1934年3月5日[31] - 1935年8月1日[32]
- 山本寛 騎兵大佐:1935年8月1日[32] -
交通
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第5522号、明治34年11月28日。
- ^ 『官報』第5547号、明治34年12月27日。
- ^ 『官報』第5626号、明治35年4月10日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』69頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』84頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』95頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』103頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』134頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』145頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』162頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』153頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』182頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』200頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』196頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』194頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』197頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』214頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』231頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』223頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』300頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』350頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』437頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』298頁。
- ^ a b 『官報』第1794号、大正7年7月25日。
- ^ a b 『官報』第2408号、大正9年8月11日。
- ^ 『官報』第1683号、昭和7年8月9日。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』344頁。
- ^ 『官報』第2692号、大正10年7月21日。
- ^ 『官報』第3013号、大正11年8月16日。
- ^ a b 『官報』第3696号、大正13年12月16日。
- ^ a b 『官報』第2151号、昭和9年3月6日。
- ^ a b 『官報』第2575号、昭和10年8月2日。
参考文献
[編集]- 『習志野市史 通史編』
- 司馬遼太郎 『坂の上の雲』
- 佐久間亮三・平井卯輔, 日本騎兵史,1968年11月24日発行
- 習友会, 開拓50周年記念誌「砂塵を越えて」, 平成7年
- 船橋市郷土資料館, 『地域研究資料3 薬園台の歴史 正伯物語』, 平成15年3月31日
- 船橋市郷土資料館, 絵はがき写真に残された明治~大正~昭和-, 平成17年3月23日
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。