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駙馬都尉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

駙馬都尉(ふばとい)は、かつて中国で、皇帝が乗る馬車のそえ馬をつかさどった官職である[1]。紀元前2世紀に前漢で設けられた。

前漢

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武帝のとき、奉車都尉とともに初めて置かれた[1]。設置年は明記されないが、奉車都尉の霍嬗元封元年(紀元前110年)にあった封禅に従ったので[2]、奉車都尉・駙馬都尉の起源は即位年である紀元前141年より後、紀元前110年より前となる。

駙馬とは、馬車につながれるものの、牽引せずに伴走する馬である。4頭立ての馬車では馬を横に4頭並べて馬車につなぐが、綱に重みがかかるのは内側の2頭で、外側の2頭は横を走るだけである。この外側の馬が駙馬で、内側の馬が疲れると交代した。付け馬、副馬、副え馬(そえうま)ともいう。馬車は奉車都尉が管理し、駙馬を駙馬都尉が管理した。

官秩は比二千石[1]。部下がなく仕事も重要ではないが、皇帝の近くに控える側近で、比二千石は高禄である。武帝の駙馬都尉金日磾は、皇帝を暗殺しようとした馬何羅に抱きついて犯行を阻止した[3]昭帝の代には幼い皇帝と年が近い金賞金建の兄弟が8、9歳で奉車都尉・駙馬都尉になった[4]。続く王、史、趙、傅は外戚の一族。董賢は外戚ではないが哀帝に特に寵愛され、弟も駙馬都尉になった。

後漢

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後漢でも比二千石で定員なし[5]。あるいは5人[6]

魏晋南北朝以降

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後には公主(皇帝の娘)の夫が任命されることが多くなった。やがてもっぱら公主の夫の官職になって、「駙馬」が公主の夫を意味する言葉になった。

駙馬都尉の人物

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前漢

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三国

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脚注

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  1. ^ a b c 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』148頁。
  2. ^ 『漢書』巻55、衛青霍去病伝第25。ちくま学芸文庫『漢書』5の267頁。
  3. ^ 『漢書』巻68、霍光金日磾伝、金日磾。ちくま学芸文庫『漢書』6の149頁。
  4. ^ 『漢書』巻68、金日磾。ちくま学芸文庫『漢書』6の150頁。
  5. ^ 司馬彪『続漢書』百官志二。早稲田文庫『後漢書』志2の459頁。
  6. ^ 司馬彪『続漢書』百官志二の劉昭注。早稲田文庫『後漢書』志2の460頁注2。
  7. ^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下、後元2年。『『漢書』百官公卿表訳注』207頁。
  8. ^ 『漢書』巻93、佞幸伝第63、序。ちくま学芸文庫『漢書』 7の513頁。
  9. ^ 『漢書』巻64下、巌朱吾丘主父徐巌終王賈伝第34下、賈捐之。ちくま学芸文庫『漢書』5の628頁。
  10. ^ 『漢書』巻82、王商史丹傅喜伝、王商。ちくま学芸文庫『漢書』7の頁。
  11. ^ 『漢書』巻82、王商史丹傅喜伝、王商。ちくま学芸文庫『漢書』7の91頁。
  12. ^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下、綏和元年。『『漢書』百官公卿表訳注』207頁。
  13. ^ 『漢書』巻97下、外戚電第67下。ちく学芸文庫『漢書』8の195頁に、駙馬都尉の趙欽を新成侯になしたとある。それが綏和2年5月であることは、『漢書』巻11、哀帝紀第11、綏和2年5月。ちくま学芸文庫『漢書』1の333頁。
  14. ^ 『漢書』巻97下、外戚電第67下。ちく学芸文庫『漢書』8の201頁。
  15. ^ 『漢書』漢81、匡張孔馬伝第51、孔光伝。ちくま学芸文庫7の61。丞相孔光と大司空史丹が駙馬都尉傅遷の免職について奏上。両人の同時在職年を『漢書』百官公卿表下で見る。
  16. ^ 綏和2年(紀元前7年)の哀帝即位から2年余り後に帝に見いだされ、その時から董賢の出世がはじまった。『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢。ちくま学芸文庫『漢書』7の526頁。
  17. ^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』221頁。
  18. ^ 『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢。ちくま学芸文庫『漢書』7の530頁。
  19. ^ 『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢。ちくま学芸文庫『漢書』7の534頁。

参考文献

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  • 班固著、『漢書
    • 小竹武夫訳『漢書』1から8、筑摩書房、ちくま学芸文庫、1998年。
    • 大庭脩監修、漢書百官公卿表研究会『『漢書』百官公卿表訳注』、朋友書店、2014年。
  • 司馬彪続漢書』(范曄『後漢書』に合わさる)
    • 渡邉義浩訳、劉昭注『後漢書』志一、二(早稲田文庫)、早稲田大学出版部、2023年、2024年。