駒形十吉
こまがた じゅうきち 駒形 十吉 | |
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生誕 |
1901年2月4日 新潟県長岡市 |
死没 | 1999年2月7日(98歳没) |
死因 | 急性心不全 |
出身校 | 旧制新潟高等学校中退 |
職業 | 実業家 |
親 | 駒形宇多七 |
栄誉 |
黄綬褒章(1956年) 勲三等瑞宝章(1971年) 勲三等旭日中綬章(1987年) |
駒形 十吉(こまがた じゅうきち、1901年(明治34年)2月4日 - 1999年(平成11年)2月7日[1])は、日本の実業家。大光相互銀行社長、新潟総合テレビ(現:NST新潟総合テレビ)社長、新潟日報社監査役[1]。新潟県長岡市出身。
来歴・人物
[編集]長岡の米穀・味噌醤油醸造を営んでいた駒形宇多七の三男(11人兄弟の10番目)として生まれる[2]。新潟県立長岡中学校卒業後、旧制新潟高等学校に進むが中退。大阪の株式取引商で実務経験を積んだ[2]。
大光相互銀行社長
[編集]1922年(大正11年)父の死去に伴い、帰郷し家業に従事する。1928年(昭和3年)に北陸産業無尽の設立に参画し支配人、1941年(昭和16年)に社長となる。翌1942年(昭和17年)3月には国民無尽商会と合併し、大光無尽に商号を変更し、1951年(昭和26年)に大光相互銀行に改組した。
田中角栄とは昵懇で、田中が落選した戦後の第1回選挙からスポンサーを務め[3]、10歳以上若い田中のことを、近しさから「角」と呼び捨てにした[4]。田中が蔵相のときには田舎の相銀にかかわらず関東に3つの支店を作った[3]。1970年(昭和45年)、十吉の銀行私物化の振る舞いを49人の支店長・部長が告発、家族内の争いも手伝ってクーデターが発生する[4]。債権取り立て益の私物化、あるいは私邸の改修費や1年の半分を保養で過ごす熱海の施設経費を銀行から支出したり、親族企業へ不正融資を行うなど、告発内容は多岐にわたった[4]。
同年、十吉は会長に退き、婿養子の斉(2004年(平成16年)死去)が社長に就任するが、1979年(昭和54年)4月、簿外債務保証が743億円に達していることが分かり、214億円の累積赤字を計上した。秋には強制捜査を受け、斉は特別背任で逮捕され、1980年(昭和55年)春、上場廃止となった。こののち、大光相互は、都市銀行・地元地方銀行・全相互銀行等88機関から540億円の低利融資を受け再建を図り、1988年(昭和63年)に融資返済で再建を完了させ、1989年(平成元年)普銀転換、2019年(令和元年)5月には40年ぶりに生え抜きのトップが誕生している[5]。
新潟総合テレビ社長
[編集]新潟総合テレビ(NST)の設立を中心となって動いたが当初は表に出ず[3]、1972年(昭和47年)、初代社長の桜井督三の急死で空いた社長ポストに、田中の全面支持を得て滑り込んだ[4]。テレビ局は追われた銀行と同じく私物に等しく[4]、「テレビの経営も家業でなくてはならない」というのが持論で、98歳で死ぬまで経営権を離すことはなく、社長在職期間は26年余りに及んだ[4]。開局にあたってはフジテレビ、日本テレビ、NETテレビ(現・テレビ朝日)から幹部が派遣され、3つのキー局のクロスネットだったが、やがて十吉は、3社を相互に競わせネット保障費を釣り上げるようになった[4]。また、社員数を第1局である新潟放送(BSN)の3分の1に抑え、自社製作をきわめて少なくした。これによってNSTの申告所得は、開局からわずか10年後には県内企業で第4位に跳ね上がった[6]。
1998年(平成10年)秋には腸閉塞の手術を受け、経過は良好に推移していたが、体力回復に時間がかかることを理由に、翌年1月25日の取締役会で社長を退任。後継には副社長の近藤源資が昇格した[7]。
1999年(平成11年)2月7日18時17分、急性心不全のため、新潟市内の病院で死去[1]。98歳没。
ラジオ新潟設立に関わる
[編集]このほか、十吉は長岡のみならず新潟経済界の有力者であったことから、当地初の民放局・ラジオ新潟(RNK、現・新潟放送(BSN))の設立にも関わった[8]。設立は1952年(昭和27年)で、まずラジオを開局し、1958年(昭和33年)にテレビを開局し、新潟放送(BSN)と改称した。十吉は監査役に就いている[8]。
人脈など
[編集]フジサンケイグループ議長鹿内信隆、日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)頭取中山素平など中央政財界にも人脈を広げた[1]。1946年(昭和21年)から1962年(昭和37年)まで長岡商工会議所会頭を務め、長岡空襲で大きな被害を受けた長岡市の復興に尽力。長岡鉄道の経営不振時には市財界をまとめて協力し[1]、十吉の主導で1946年(昭和21年)から始まった復興祭りは長岡まつりとなり、今やその花火見たさに全国から観光客が押し寄せるになった[2]。また、地元若手経済人勉強会を主宰し、メンバーから日本精機、原信らの社長を輩出した[1]。
美術品収集家
[編集]現代美術収集家としても知られ、大光相互やNSTの社内には「大光コレクション」と呼ばれる数多くの美術品が飾られ、1964年(昭和39年)には長岡現代美術館を設立し[2]、一般にもコレクションを公開した。しかし、乱脈融資事件をきっかけに経営危機に陥った大光相互は、国や各地の金融機関から融資を受けるため現代美術館を閉鎖した。このため、収蔵品の約半分が全国各地の美術館などへ売却された。なお、売却を免れた一部の収蔵品は現在、新潟県立近代美術館とかつて放送センターがあったNST長岡支社に併設の駒形十吉記念美術館に収蔵されている[9]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 「県内金融界の草分け 駒形十吉氏が死去」『新潟日報』(新潟日報社)、1999年2月8日、夕刊1面。
- ^ a b c d 境政郎 2020, p. 197.
- ^ a b c 中川一徳 2019, p. 127.
- ^ a b c d e f g 中川一徳 2019, p. 128.
- ^ “大光銀、新頭取に石田氏 40年ぶり生え抜き”. 日本経済新聞. (2019年5月10日) 2022年9月22日閲覧。
- ^ 中川一徳 2019, p. 129.
- ^ 「駒形社長が退任」『新潟日報』(新潟日報社)、1999年1月27日、朝刊6面。
- ^ a b 境政郎 2020, p. 199.
- ^ 境政郎 2020, p. 200.
参考文献
[編集]- 中川一徳『二重らせん 欲望と喧噪のメディア』講談社、2019年12月。ISBN 978-4065180877。
- 境政郎『そして、フジネットワークは生まれた』扶桑社、2020年1月。ISBN 978-4594084028。