コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

馮魴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

馮 魴(ふう ほう、紀元前1年 - 85年)は、中国後漢時代初期の政治家。字は孝孫荊州南陽郡湖陽県の人。王室の支流とされ、故地の馮城に因んで姓とし、が魏を滅ぼすに及んで湖陽に移り、郡の族姓となった。

事跡

[編集]
姓名 馮魴
時代 後漢時代
生没年 紀元前1年 - 85年元和2年)
字・別号 孝孫(字)
本貫・出身地等 荊州南陽郡湖陽県
職官 県令〔後漢〕→県令〔後漢〕

魏郡太守〔後漢〕→太僕〔後漢〕
行衛尉事〔後漢〕→司空〔後漢〕
→行衛尉事〔後漢〕→執金吾〔後漢〕

爵位・号等 関内侯〔後漢〕→楊邑郷侯〔後漢〕

列侯〔後漢〕
五更〔後漢〕

陣営・所属等 後漢
家族・一族 父:馮楊

在野の人材として

[編集]

王莽末の反乱に際し、賓客を集めて塹壕を作った。この時湖陽の大姓の虞都尉というものがそむいて軍をなし、同県の申屠季が仇であるとしてその兄を殺し、その一族を滅ぼそうとした。申屠季は馮魴の元に亡命し、馮魴は彼を屋敷に帰らせてやりたいと思った。

道中、虞都尉の従兄弟の長卿が申屠季を得ようとやって来た。馮魴は長卿を叱って「私と季は無関係であったが、士が窮して帰ろうとするのであれば、決死をもってこれに任せることになる、卿は何のために言おうというのだ?」といい、ついにはともに帰ることに成功した。

申屠季は感謝して「御恩によって身を守り切ることができた。死なずに済んだ事にどうやって報いよう。持っている牛馬財物、全て君に献じよう」といったが、馮魴は色をなして「私の老親、弱弟はみな賊の城中にある。今日は助け合った、それ以上の話ではない。なぜ財物のことなどいうのだ」といった。申屠季は恥じ入ってもう言わなくなった。馮魴はこれによって同県のものたちの敬信を受け、塹壕に拠り固く守った。

潁川反乱

[編集]

建武3年(27年)、天下未だ定まらず、四方の士の中に詐称して兵を擁するものが甚だ多かった。馮魴はただ自守するだけであったが、方策を持っていた。光武帝はこれを聞いて素晴らしいと思い、徴召して洛陽城に呼び寄せ、雲台にてまみえ、馮魴は虞県令を拝命した。政を為すにあえて殺伐し、威信をもってすると称した。

郟県の令に移った。光武帝が隗囂を西征しているとき、潁川郡で群盗が崛起し、郟の賊は延褒ら3000人あまりで県庁舎を攻囲した。馮魴は吏士70人あまりで連日力戦するも、矢は尽き城は落ち、馮魴は逃げ延びた。光武帝は郡国で反乱があると知ると飛んで帰り、すぐさま潁川へと向かい、馮魴は帝のもとを詣でた。光武帝が戦闘を確認していると、馮魴の力戦を知り、これを称賛して「なんと勇ましき県令であろうか、討伐すべきところ、州郡にこだわるな」といった。

延褒らは光武帝が到着したことを知ると、自ら剃髪し、腰斬の刑に使う板を背負って降伏し、罪を乞うた。光武帝はこれを許し、馮魴に集落を降伏させ、県中を平定し、詔して延褒らを使って悉くこれに誅罰を加えようとした。馮魴は軍法をもって延褒を責めようとしたが、延褒らは叩頭し「今日誅殺されても恨むところはありません」と述べた。馮魴は「君たちは過ちを悔やんで罪に伏すことを知っている。今一切をあい許そう。そのかわり農家や養蚕の道に帰り、役所の耳目になってくれ」といい、延褒らは皆寛大な措置に万歳を叫んだ。この時から盗賊が出るごとに、延褒らが通報するところとなり、あえて動こうとするものはいなくなって、県は静かになった。

統一後の年譜

[編集]

建武13年(37年)、魏郡太守に移った。

建武27年(51年)、成績が優秀である事によって趙憙に代わって太僕となった。

建武中元元年(56年)、泰山封禅に従って行衛尉事となり、帰ってきて張純の代わりに司空となった。関内侯を賜った。

建武中元2年(57年)、光武帝の崩御にともなって原陵(光武帝の陵墓)を作り、その功によって楊邑郷侯、350戸を食んだ。

永平4年(61年)、隴西太守鄧融の汚職に連座して策免され爵土が削られた。

永平6年(63年)、明帝が魯に行幸し、行衛尉事に復帰した。

永平7年(64年)、陰嵩に代わって執金吾となった。

永平14年(71年)、詔して爵土が戻された。玉玦を賜った。

永平15年(72年)、明帝が郡国を巡幸する際、洛陽に留め置かれて南宮を宿衛した。

建初3年(78年)、老病の身であることを理由に辞職を願い、章帝はこれを許した。冬、「五更」の号を得て、朝賀で詔をうけ列侯となった。

元和2年(85年)、86歳で卒した。

評価

[編集]

馮魴は謹厳公正、位にあると数多の忠言直諫をし、その多くが納れられたという。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]