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馮紞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

馮 紞(ふう たん、? - 286年[1])は、中国三国時代西晋政治家少冑冀州安平郡の人。祖父は馮孚[2]、父は馮員、兄に馮恢[3]、子に馮播、馮熊、孫に馮蓀[4]

生涯

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若くして経史を広く読み渡り、機知にとんだ弁舌に通じた。魏郡太守から中央で歩兵校尉、越騎校尉を歴任し、武帝・司馬炎から厚遇され左衛将軍に遷った。顔色から帝の気持ちを良くくみ取ったため寵愛は日に日に増し、賈充荀勗と親しく付き合った。一方で、清廉な羊祜を忌み嫌い、厳格な劉毅からは断罪の機会を窺われていた。[5]

泰始6年(270年)、鮮卑の樹機能により秦州刺史・胡烈が戦死し、司馬亮が降格となると、任愷の提案で賈充が西方の抑えとして長安に出向することになった。この異動は賈充にとって不本意であり、馮紞や荀勗も自分たちの勢力が弱まることを恐れ、荀勗と協力して賈南風を武帝に薦め皇太子妃とすることで、(大雪や羊祜の上伸もあり)彼の赴任を阻んだ。また賈南風が廃されそうになると、楊芷(皇后)、楊珧、荀勗らと武帝を説得してそれを阻止した。

孫呉の征伐に関して、荀勗、賈充らと共に反対派であったが、咸寧5年(279年)に侵攻が開始した際には汝南太守として郡兵を率いて、太康元年(280年)に王濬に従って秣陵に入城した。その後は御史中丞、侍中を務めた。

武帝の病が重くなった際、斉王・司馬攸に支持が集まったことを危険視した馮紞と荀勗は、朝廷から司馬攸を遠ざけることを目論む。馮紞は武帝に「司馬攸は公卿の信望が高く、次代に帝位に推されれば断り切れないでしょう。藩国に帰らせることが社稷を安んずる道です」と伝えたところ、武帝は太子・司馬衷の皇位継承を確実にするために同意した。この後の太康3年(282年)、司馬攸の帰藩騒動が起こるが、司馬攸本人が薨去したため武帝は激しく嘆き悲しんだ。しかし、馮紞が「斉王の名声は実態以上であり、この一件は大晋にとっての福です。陛下はどうして悲しんでいるのですか」と告げた為、武帝は泣き止んだ。

馮紞は呉討伐に反対派であったため、討伐を推し進め成功させた張華を逆恨みしていた(兄の馮恢が武帝の前で張華に批判されたこともあった)。張華が幽州で成果を上げると朝廷では中央に戻して尚書令、儀同三司にすべきとの声が上がったが、馮紞は武帝に「鍾会の乱は太祖(司馬昭)の制御不足に原因があります。そして鍾会の再来を防ぐべきです」と暗に張華への重用を警告した。そのため張華は太常(宗廟を管理する九卿)に徴され、のちに太廟の棟が折れたが咎で免官された。[6]

太康5年(284年)正月に異常気象、5月に旱魃が起こると劉毅は「阿る奸臣を誅殺する必要があります」と上疏したが武帝は返答をしなかった[7]。馮紞は尚書を務めていたが、病にかかると引退を求めるようになった。

太康7年(286年)、武帝は「尚書の馮紞は忠亮にて内外の職を歴任し勤勉で、病が悪くないのに度々引退を求めている。」と詔を下し、散騎常侍の地位と、銭二十万、寝具の帳一式を贈ったが、ほどなく死去した[8][9]

脚注

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  1. ^ 『晋書』五行志中の太熙元年(290年)の記事に、「朝廷の佞臣の馮紞らが要職を占めるため旱魃が続いている(要約)」とあるが、本人の伝には286年の後ほどなく死去とあるため、この記事は誤記と思われる。
  2. ^ 馮紞の祖父・馮孚は魏の司隷校尉であり(『晋書』)、一方で李孚は魏の司隷校尉で馮姓から改姓したと伝わる(『三國志』注『魏略』)。これらを繋げると馮紞の祖父は李孚となるが、同一人物説をとる場合、李孚は鉅鹿郡、馮紞は鉅鹿から北の安平郡と本籍が異なる点と、李姓からまた元の馮姓に戻っている点の説明が史書には見られない。
  3. ^ 『晋書』には独立した伝があったようだが現代では失伝している。また同書・崔洪伝に長楽郡の「馮恢」が出てくるが、長楽郡は安平郡を改称したもので(『世説新語』に引く『晋後略』でも馮播を「長楽の人」と表記する)、この馮恢が馮紞の兄と同一人物ならば、「馮淑」という末弟も兄弟にいたことになる。
  4. ^ 『世説新語』に引く『晋後略』曰:「播字友聲,長樂人。位至大宗正,生蓀。」
  5. ^ 晋書』羊祜伝、劉毅伝など
  6. ^ 『晋書』張華伝
  7. ^ 『晋書』五行志によると、荀勗や馮紞が威光を笠に朝廷を乱したことが原因としている
  8. ^ 『晋書』太康七年,紞疾,詔以紞為散騎常侍,賜錢二十萬、牀帳一具。
  9. ^ 『太平御覧』『晋起居注』太康七年詔曰:「尚書馮紞忠亮在公,歷職內外,勤恪匪懈,而疾未差,屢求放退。其以紞為散騎常侍,賜錢二千萬,床帳一具。」